首筋から雨の香り
雨は嫌いだ。
掃出し窓の向こう、狭いベランダが雨に打たれている。春日友也は一気にブラインドを引きおろし、視界から雨を遠ざけた。
雨音は小さくなったけれど、それでもなお、雨の匂いが部屋の中に漂っている。嗅覚ばかりはどうしようもない。友也は忌々しげに舌打ちをした。
母が亡くなったのは、こんな雨の日だった。
真っ白な病室がしんと冷えて、自分は一人ぼっちになったのだと思った。でも、ほどなく現れた若い男が、そっと肩を抱いてくれた。
「大丈夫か?」
その声にぼんやりと振り向くと、優しい目が自分を見下ろしていた。その人の周りにだけ色があり、温度があった。そのとき初めて、自分は声を上げて泣いたのだ。
だが、その数年後、彼もまた自分の元を去った。やっぱり雨の日だった。
傘もささずに歩いていくその姿を追わなきゃと思った。せめて、傘をさしかけなくちゃ、そう思った。でも、彼には濡れた髪を拭ってくれる存在があったのだ。
髪だけでなく、雨で冷えたその肌も抱きしめて温めてくれるひと――だから省吾は傘を差さずに出て行ったんだ。
友也はドアの内側で、黒い傘を握りしめて泣いた。
だから雨は嫌いだった。嫌なことばかりを思い出させるから。
不意に玄関のドアが開く音がした。続いて「ただいま」の声と共に、友也、と自分を呼ぶ声が聞こえた。
俊樹さんだ! 友也ははじかれたように立ち上がる。
玄関に近付くにつれ、雨の匂いが濃厚になる。玄関の狭い三和土には、全身濡れそぼった年上の彼が立っていた。
「悪い、タオル持ってきて」
「傘、なかったの? 言ってくれれば迎えに行ったのに」
「すぐに止むと思ったんだよ……それに、おまえ雨は苦手だっただろ?」
笑いかける彼に、友也の心が奇妙に軋む。
この人は、なんて顔して笑うんだろう――何気ない一言、さりげないまなざし、兄がこの人を好きになったことがわかるような気がする。
「友也?」
「――ごめん」
不意に泣けそうになって、その表情をごまかすように背を向ける。そのまま短い廊下を子どもみたいにぱたぱたと走って、洗いたてのバスタオルをぎゅっと掴んだ。顔を埋めて、目から落ちようとする雫を吸い取らせる。
――俊樹さん。
彼が冷えるから、早く戻らなきゃと思うのに、押し寄せる感情に対処できない。俊樹と暮らすようになって、友也は時々、こんなふうになる。せつなくて、胸が痛くて、泣きたくてたまらなくなる。まるで発作だ。
――好き。
こみ上げる思いを言葉で逃がす。そうしたら少し楽になって、友也は息をついた。
バスタオルに包みこんだ、雨をまとった彼をそのまま浴室へと連れていく。
髪を拭いて、素肌にはりついたシャツを脱がせたら、後ろ髪のはりついた首筋が露わになった。
「きれい」
思わず目を奪われて、誘うようなそこに唇を触れた。
「こら、濡れるだろ」
そっと自分を遠ざけようとするその腕を乱暴につかんで、友也は俊樹をタイルの壁に追い詰める。
「いいんだ……一緒に濡れたい」
嫌いなはずの雨の名残りが俊樹から立ち上ってくらくらする。たまらなくなって首筋に顔を埋めたら、その芳香が濃厚になった。
匂い、じゃない。
雨の香り。
「お帰り……帰ってきてくれて、ありがとう」
雨の日に置いていかれた自分を、今、抱きしめてやりたいと友也は思う。
そのとき、唇を下から柔らかいものでふさがれた。小鳥が啄むような優しいキス。そんなキスを自分に教えてくれたのも、彼だった。
濡れた腕がぎゅっと友也を抱きしめる。
バカだな、俊樹の唇がそんなかたちで動いたような気がした。
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