朝が来るまで
「時間だけは何をどうしても取り戻せない。恋愛は独りでするものじゃないんだって、この十年、僕はそのことばかり考えていたよ」
嶋田の呼びかけに、加納潤はそっと微笑んだ。その傍らに、高科真冶が加納を守るかのように寄り添っている。
「そうですね。でも、やり直すことはできるでしょう?」
加納のその言葉は、癒しの響きをもって、その場にいるそれぞれの心へと染み込む。
これまでの過ちも、迷いも全て、大きな何かに包み込まれて行くような――その感慨の中で嶋田が「そうだね」と呟くと、加納と高科は会釈をして、二人を残し、そっと部屋を出て行った。
「博隆」
腕の中の紺野が嶋田を呼ぶ。
「あの二人……帰ったのか?」
微妙にずれた紺野の問いに、嶋田は笑った。
「なんだ……今頃気付いたのか?」
そう言って、そっと身体を離そうしたが、紺野は強い力で嶋田の腕に縋った。離れまいとするかのような、その子どものような所作に、嶋田は愛しさよりも申し訳なさが先に立つ。 そんな風に彼を怯えさせたのは自分だと……十年もかかってそんなことに気付いた自分が滑稽だった。
傷つけただろうとは思っていた。
だが彼は新しい人生の中で立ち直って行くだろうと……きっと、そうしてよかったのだとお互い思える日が来るのだとそう信じて、いや、言い聞かせてきた。
「ごめん春樹。大丈夫。もうどこにも行かないから……」
そっと眼鏡をずらしてその目元に口付ける。
十年前、喧嘩をした後は、いつもこうやって仲直りのキスをした。彼は覚えているだろうか。
「ごめんな」
もう一度繰り返す。すると、紺野は安心したように嶋田の腕から身を起こした。
「悪かった……取り乱して」
駄々をこねたような自分が恥ずかしくなったのだろう。紺野は下を向いて眼鏡のフレームを触る。彼が照れている時の癖――何も変わっていない。そして嶋田は、そんな紺野の一つひとつを覚えている。新たな感慨に囚われて紺野を見ると、彼もまた物言いたげな瞳を返してきた。
やがて、どちらからともなく手を伸ばし合い、唇が触れる。もう永遠に訪れることのないと思っていたその一瞬。そこにあるのは恍惚と郷愁だけだった。
「博隆……」
キスの合間に名前を呼んだのは紺野だった。
ん? と問い返し、嶋田はまたその唇を塞ぐ。
「ひろたか、ひろ……」
飽くことなく紡ぎ出される自分の名前を、嶋田は一つひとつ、自分の唇で絡めとって行った。
昔から、自分には際限なく甘える男だった。
仕事もできて、男女問わず人気があって、面倒見がよくて後輩にも慕われ、上司にも一目おかれる「デキる男」なのに、そんな彼が自分の前ではいつも、ただ撫でられることを望む猫のように、ゴコゴロと甘えてまとわりつく。
それでいて、セックスのときは、こちらがぼうっとなるくらいに男っぽくて、いつも自分を翻弄し、骨抜きにしてしまう――そんな紺野のギャップが、嶋田はたまらなかった。
夜の闇にまぎれて繋いだ手をそのままに、嶋田は自分の住む部屋のドアを開け、紺野を招き入れた。
「入って――散らかってるけど」
紺野は今、家族と暮らしていたマンションを出て、ホテル暮らしをしているのだと言う。 とりあえずの着替えとノートパソコン、携帯電話があればどこでも暮らせるもんだよ、と紺野は苦笑し、マンションはそっくりそのまま妻に渡すのだと言った。紺野が離婚について語ったのは、ただそれだけだった。
あの店を出て、もちろん二人ともそのまま別れて帰路に着くつもりはなかった。かと言って、ホテルへなだれ込むのは刹那的な感じがした。
「うち来る?」
嶋田の静かな問いかけに、紺野は黙って頷いた。
部屋に入った紺野は、珍しそうにきょろきょろと周りを見回している。その様子が何だか可愛くて――社では有能な課長で通っているのに、変わらず自分に見せてくれる無防備な様子に、嶋田は思わず微笑んだ。
「ビール?」
「いや、もう酒はいい」
二人分のコーヒーを淹れて、ローテーブルの上に置く。
紺野はブラックが駄目で、ミルクと砂糖を少しずつ入れる。一口飲んだ紺野の目に、思わず驚きの色が浮かび、そして満ち足りた子どものような顔で残りのコーヒーが飲み干された。
「煙草は?」
「いい。やめたんだ」
嶋田の問いに、紺野は短くそう言って、もう一度部屋の中を見回した。
「……前と同じとこに住んでたんじゃないんだな」
「まあ、十年も経てばな」
嶋田はさりげなくそう言ったが、紺野と別れたあと、住んでいた部屋だけでなく、紺野を思い出させる家具や家電にいたるまで、その一切を処分した。どうしても捨てられなかったのは、あのシルバーの指輪だけだ。そんなにしてまで全てをリセットしようと思ったのに、それはほんの気休めにしかならなかった。
目に触れるものを排除しても、例えば仲直りのキスだとか、彼のコーヒーの好みだとか、そういうことは自分の中から消えて無くなりはしない。
ふと視線が合う。
合って、絡んで、そしてお互いから目を離せなくなる。確かめたいこと、聞きたいこと、言わなければいけないことはたくさんあるはずなのに、ただ目の前の身体が、触れたい、触れられたいと主張して、抗えなくなった。
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