恋になるまで
照明の落ちた部屋の真ん中。
不自然に丸いベッドのぱりぱりに糊の効きすぎたシーツの上で、二人は向き合っていた。紺野の指が嶋田のシャツのボタンを外す。神聖な儀式みたいに、二人は何も言わずお互いの目だけを見ていた。
「……いいのか」
先に声を発したのは紺野の方だった。だが、手はおずおずとシャツの中に入り込んでいる。
「何度も聞くな」
改めて聞かれると恥ずかしさが増す。嶋田はぶっきらぼうに言って、目を逸らした。彼に触れる紺野の手が性急になる。
「キスしていいか?」
「だから聞くなって……あっ」
塞がれた唇は、この前のような控えめなものではなかった。あの時も舌を入れられはしたけれど、その熱さと肉感が全然違う。押し付けられ、吸われて舐められて……一気に嶋田の意識は混濁した。息を継ぐのがやっと……「引く」と言われたわけが納得できるような濃厚なキスだった。
「あ……ぅ」
「嶋田……しまだ」
「ん、や……」
「ごめん、苦しい……?」
「息できな……あ」
「しまだ……」
会話は意味を成さず、もつれたまま、勢いで二人してベッドに転がる。紺野は嶋田の指に自分の指を絡めてシーツに縫いとめ、のしかかってきた。互いに硬くなったそこが当たり、こすれるたびに叫び出したいような快感が嶋田を襲う。
なんだこれ……どうしてこんなになって……思う側から、愚問だろ、と心の声がする。こんなキスされて、身体が触れ合って、気持ちよくならないはずないだろ?
でも、抗えなかったのは、そんな快感だけではなく、狂おしく紺野に求められているという現実だった。飽くなきキスを繰り返す唇も、震える指も、絡まる足も、すべて現実。すべてがリアルの紺野だった。
「触っていい?」
またそんな不安そうな顔で聞く――でも言いながらもう手は動いていて、紺野は大きくなった嶋田を握りたてて、同時に自分のそれと擦り合わせるようにした。一心不乱の息遣いに混じって、時折彼の苦しげな声が耳に届く。
「あ……しまだ……」
エロい声だ。紺野が俺に触って感じている。こんな、こんな声出すなんて……。
「……っ、ん……し、しまだ、ぁ――」
呼ばれることにたまらなくなって、嶋田は紺野の暴発しそうなそれに触れた。いきり立っているものをなだめるように、そっとさする。とたんに、紺野の顔に困惑の表情が広がった。
「いい……おまえはしなくて……っ」
「バカだな……」
本当に、こんなやつだなんて知らなかった。自分の知る紺野はいつでも隙がなくて、自信に溢れて豪胆で――嶋田は紺野が自分に触れるタイミングに合わせて手を動かした。
それなのに、こんな顔で、こんな無垢な目で、こんなエロい声で……。
そして嶋田は噛み締める。自分自身も知らなかった、これほど、他者に欲しがられるという感覚を。
「しまだ……」
刹那、紺野はかすれた声で嶋田を呼んだ。その声を聞いたら、そんな声を出させたのが自分なのだと気付いたら、もう、何もかもどうでもよくなった。嶋田もまた、紺野の名前を呼んだが、その声もやっぱりかすれていた。
息を吐き、紺野は嶋田から身体を離した。
手のひらはお互いのもので濡れていて、一気に平常へと立ち戻る意識の中で、相手への名残惜しさだけが置き去りにされていく。嶋田は手を拭えばそれで何もかもが終わってしまうような気がして、それを惜しむ自分に気が付いて、ただ茫然と手のひらを見つめていた。
そんな嶋田に何を思ったのか、紺野はシーツの上に正座して、小さく頭を下げた。
「ありがとう……触らせてくれて……キス、させてくれて……触ってくれて、ありがとう……」
俯いた顔から、シーツに水滴が落ちる。
――泣いてるのか?
でも、その背中を抱きしめていいのかどうか、嶋田はまだ、わからなかった。ただ、そのかすれた声がせつなくて、明日から、ただの同期に戻れるのかどうか。でもそんなことすら今はどうでもいい気がした。
終電を捕まえようと、二人は最寄駅への道を急いだ。
昂ぶった身体を無理やりスーツに押し込んで、言いたくても言えない言葉も心の中に押し込んで。
嶋田の乗る路線の改札で、紺野は立ち止まり、やっぱりかすれた声で「ありがとうな」と告げた。
「おやすみ」
「おやすみ……」
返しながら嶋田は、物足りなさを禁じ得ない。だが人波に押されて、身体は前へと進んでしまう。ふと気になって振り返ると、紺野はまだ改札のところにいた。早く行かないと乗り遅れるのに……何だか、彼がまだそこにいるということが、気が気でない。
アナウンスが最終電車の到着を告げ、人々が電車の中に吸い込まれていっても、嶋田は動けなかった。まだ紺野があそこにいるような気がして、後ろ髪を引かれる。
――しまだ。
呼ばれたような気がした。あの、かすれた声が自分を呼んでいるような気がした。
嶋田は踵を返した。最終電車はドアを閉め、レールを滑り出していく。
――まだ改札に紺野がいるなら……。
嶋田は自分の中で賭けをした。
もう、いないなら僕はこのままタクシーで帰る。でも、もし居たとしたら――。
改札口への階段を、嶋田は一段飛ばしで駆け下りる。
まだそこにいるかもしれない紺野の元へ。かすれた声に呼ばれるように、嶋田は駅の構内を駆けていった。
END
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