恋になるまで

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 ――あれ?
 嶋田博隆は、箸を動かす手を止めた。
 ――まただ。
 振り返って後方を見る。だがそこにあるのはいつもと同じ社食の風景で、みな食事をしていたり、連れと話し込んだりしていて、誰も自分の方を見てなどいない。
「どうした?」
 並んだ同期の男が、ソバをすすりながら聞いた。
「誰かに呼ばれたような気がしたんだけど……気のせいだな」
「急ぎなら内線入るだろ」
「そうだな」
 だが、気のせいではないと思う。嶋田はここ最近、こうして頻繁に視線を感じている。
 その視線は時に、今みたいに誰かに呼ばれているような感覚を伴うこともある。でも、振り向くとその気配はいつも消えうせていて肩透かしを食らう。視線の主に心当たりはないが、一つ言えることは、視線を感じるのは、必ず自分の所属する経理課フロア以外で、だということだった。
 だから視線の主は違う部署の人間だと思う。すれば、ますます心当たりがない。だが、誰かに見られているという感覚は、やはり落ち着かないものだ。それに、いい意味の視線ではないということも十分考えられるし……。
 こんなふうに思うから、自分はいつでもぱっとしないんだろうな……考えながら、嶋田は自動販売機の前に立った。
 視線がついてくる。
 さっき見失った視線が、今度はからみつくように自分を追う。
 もしかしたら、すごく近い距離から見られてるんじゃ……そんなことに気をとられていたら、足元に小銭をバラまいてしまった。
 あーあ、と自分のカッコ悪さに辟易しながらその場に屈もうとしたら、不意に目の前に手が差し出された。
 その手のひらの上に、小銭が何枚か。自分の後ろに並んでいた誰かが拾ってくれたようだった。
「ありがとう」
 顔を上げると、それは同期の紺野だった。同期とは言っても、別に親しいわけではない。とは言え、知らない仲でもなく、なのに紺野は無愛想だった。その顔のままで紺野は嶋田にぞんざいに小銭を押し付けたかと思うと、急に手を引っ込めた。
「あっ」
 嶋田は思わず声を上げた。
「何だよ?」
 紺野はそんな嶋田に、ひどく驚いた顔をした。
「静電気? ほら今、びびっとこなかった? 指が触ったとき」
 紺野は憮然とした顔をした。そして急に嶋田に背を向けると、何も言わずにその場を立ち去ってしまった。
 ――なんだ、コーヒー買うんじゃなかったのか? 
 急に踵を返した紺野の背中を、嶋田は不可解な気持ちで見送った。
 同期の紺野は有名人だ。
 営業成績は常にトップで、同期の中でも何かにつけ、頭一つ抜きん出ている。
 容貌も華やかで、どこに居ても目立つ。仕事もできて、外見も目を引くとあれば、男女問わず、年齢問わず人気があるのは当然で、学校に必ず一人はいた「勉強も運動もできて、人にも好かれるタイプ」だったことは間違いない。それに対して自分は、学校に必ず何人もいた「何もかも普通で、印象の薄いタイプ」だ。同窓会の名簿を作る時に、ひとまとめで取りこぼされそうな、その他大勢タイプ。
 嶋田は、今までこんなふうに誰かの視線を感じたことなどなかった。誰かに見られるほど、自分は何かが抜きん出ているわけではない。例えばもし、これが紺野なら、こういう視線や声のない呼びかけは恋愛の駆け引きになるんだろうけど――つくづく、自分は面白味のない人間だと嶋田は思う。だから恋の一つもできやしないんだと。

 土曜の午後、嶋田は誰もいない経理フロアでパソコンに向かっていた。
 どうにも気になった数字があって、家へ帰ってから急に落ち着かなくなったのだ。自分の要領の悪さに呆れつつ、仕方なく休日の会社に足を踏み入れた。
 当然ながら、フロアはしんと静まり返っている。キーを叩く音だけがやけに大きく響き、自分の息遣いさえも聞こえそうなほどに、辺りは静寂に包まれていた。
 ――しまだ。
 その静寂の中で、ふと呼ばれたような気がした。いつもざわめきの中で聞こえるそれと違って、雑音を伴わない響きは随分とクリアだ。モニターから顔を上げた嶋田の耳に、もう一度その声が届く。
 ――しまだ。
 同時に、いつもの視線も感じた。誰もいないはずなのに――思わず振り返った嶋田は、フロアの入り口に立つ人影に気付き、思わず立ち上がった。
 紺野だった。
 だが、視線の主と紺野を結びつけることは思い至らず、嶋田は「なんだ、驚かすなよ」と彼に声をかけた。
「仕事?」
 尋ねる嶋田に、紺野は目を泳がせる。
「いや、ちょっと忘れ物して、取りに来ただけ」
 なるほど、彼は私服だった。彼の私服姿を見るのは初めてだが、いい男は何を着てもサマになるんだなと嶋田は関心する。V字にあいたTシャツからのぞく首元が何だか新鮮で、そんなことを思った自分に気付いた嶋田は、少し慌てて「俺は、気になったところがあって」などと、聞かれてもいないことを口にした。
 紺野はふうん、と言って隣の椅子に座る。嶋田は作業に戻ったが、キーを打つ手元はおぼつかなく、何度もくだらない入力ミスを繰り返した。
 紺野に見られている――。
 いつも自分を追って、そのくせすぐに気配を消してしまう、あの視線。
 今、ここには嶋田の他には紺野しかいない。なのに、あの視線が嶋田にからみつく。いつものように遠くから感じるだけではない、もっと直接的な、もっと具体的な視線がからみつくのだ。
 「嶋田、そこミスしてる」
 ふと、嶋田の肩に紺野の指が触れた。瞬間、数日前、自販機の前で感じたと同じ感覚が彼の指先から流れ込む。
 違う、静電気なんかじゃない――これは――。
 何でもない台詞とは裏腹に、肩に触れる紺野の指先は熱かった。まるで指の先に心臓があるかのように、どくどくと脈打って、何かを自己主張している。
 その指が耳に触れた。皮膚の薄いそこから、より激しい血流が伝わってくる。紺野、と言おうとした時だった。
「んっ!」
 十本の脈打つ紺野の指に顔を固定され、嶋田は唇を塞がれた。指を添えられたこめかみが怖いほどに脈打って、それが自分の感覚なのか、紺野の指なのかがわからない。突然のことに硬直して、ただ、鼓動が張り付けられたかのような紺野の指先だけがリアルだった。
 紺野の舌が、懇願するように嶋田の唇を啄ばんでいる。流されるままに唇を開くと、舌が素早くそこに潜り込んできた。
「っや……」
 同時に、脈打つ指先が両の耳孔に触れる。なぞられて皮膚が粟立つ。嶋田は我に返った。
「紺野……」
 だが、彼はキスをやめようとしない。唇が重なったままの発音は、あえなく彼に飲み込まれる。
「紺野……!」
 嶋田は渾身の力で、その厚い胸板を押しのけた。
「ご、ごめん……!」
 拒絶され、自身もまた我に返ったその顔は、今にも泣き出しそうだった。
「ごめん!」
 もう一度言い放って、紺野はフロアを走り去っていく。
 残された嶋田は何が起こったのか把握しきれずに、ただそこに座っていた。目の前のモニターが待機画面に変わり、ちかちかした幾何学模様がランダムに映し出されている。
 ――紺野……。
 思わず指先を唇に触れる。
 紺野の唇の感触がよみがえる。
 嶋田の指もまた、血流がそこに集まったかのように、どくどくと脈打っていた。



 
 


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