リスタート
(J.GARDEN35配布ペーパー掲載SS)
心臓の音が、健太、健太と彼の名前で鳴っている。
うるさいくらいのその鼓動に耐えながら歩みを進め、十メートルほど先に、有坂はその懐かしい背中を見つけた。
見慣れない、薄いグレーの作業服姿。広くて逞しい背中を少し丸めて、彼は一心に作業をしている。
ああ、でも、少し痩せただろうか。 そう思ったら、じんわりと涙が込み上げた。今すぐにその背を抱きしめたい。だが、駆け出しそうになった脚を、もう一人の自分が押し留めた。
――何をしに来たんだって言われるかもしれない。
――帰れって言われるかもしれない。
さっきまでは、やっと一条に会える喜びでいっぱいだったのに、急に怖気づいて有坂は物陰に身を潜めてしまう。手を伸ばせば彼に触れられるのに……だが、凍りついてしまったように一歩が踏み出せない。
気持ちを取りなすように目を閉じて、深呼吸をする。目の奥に浮かんだのは、二人並んだ海斗と春近の姿だった。
こんな時まで見せつけるなよと心の中で文句を言ったら、二人の声がよみがえって有坂の背中を押した。
『好きになったら、それは自分の責任なんだよ。ノンケの男をあんまり見くびるな!』
『……だからと言って、それであんたたちが幸せになってはいけないってことはないんだよ』
「……んた」
何を考えるよりも先に、声が出ていた。だがその声は掠れてしまって彼には届かない。有坂は声を振り絞った。
「健太……!」
彼が振り向く。
それはスローモーションのようにも、コマ送りのようにも見えた。 振り向いた彼の顔が奇妙に歪んで、その唇が「良邦さん」と自分の名前のかたちに動く。有坂は地面を踏みしめ、崩れそうな身体を、今にも彼に倒れ込んでしまいそうな身体を 懸命に支えた。
「……いつまで僕を放っておくつもりだ」
聞こえた自分の憎まれ口に、有坂は心の中で激しく首を振る。
――違う。こんなことが言いたいんじゃないのに。
ぎゅっと目を閉じて、そんな自分を追い払おうとした次の瞬間、有坂は一条の胸の中に抱きしめらていた。
言葉はいらない。
有坂は一条を抱きしめ返した。彼の背に精一杯に腕を回してかじりつき、その胸に頬を摺り寄せる。懐かしい彼の匂いの中に、今まで知らなかった苦い煙草の香りがして、そのことが有坂の胸をせつなくかきむしった。
二人の中で止まっていた時が動き出す。
どこからやり直せばいいんだろう――いや、違うな。きっとここから始めればいいんだ。今、この場から、この瞬間から。
一条の腕の中で身じろいだら、そのことを戒めるかのように抱きしめる力が強くなる。顔を上げると、黒い目から小さな雫がぽつんと落ちてきた。
「良邦さ……」
何か言いかけた唇を触れるだけのキスで塞ぐ。「迎えにきた」と言うと、一条は泣くのを堪えるように唇をキッと引き結んだ。
「裕也くんですね。……絶対に有坂さんには知らせないって約束したのに」
「嫌か?」
有坂は危ぶむように尋ねた。もしかしたら、やっぱり僕には会いたくなかったのかもしれないと、胸が不安でざわめいた。
「そんなわけ……ないでしょう。会いたかった……でも、会いたいって言ったら、もう何もかも我慢できなくなりそうで……」
有坂を抱きしめたまま、一条は震える声で訴えた。四年前と同じように、有坂の髪を優しく撫でながら――以前と変わらない彼の愛撫に、有坂の緊張していた心がほろほろとほどけていく。
健太だ。やっと会えたんだ……顔を見たら号泣してしまうんじゃないかと思ったのに、心に訪れたのは、ただ安らかな安堵感だった。
ありがとう。有坂は静かに感謝した。自分をここへ来させてくれた春近に。二人でいることの意味を、改めて考えさせてくれた海斗に。
「裕也に元気な顔を見せてやってくれよ」
そう言って、有坂はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。二人で寄り添い、カメラに自分たちの姿を納める。有坂は精一杯、不敵な自分らしい笑顔を作り、その隣で一条は恥ずかしそうに微笑んだ。
メールの件名は『捕獲』。
彼らはきっと、「有坂さんらしい」と笑うだろう。
『健太は元気だ。無事に会えた。高倉くんにもよろしく言ってくれ』
短い文面にツーショットの写真を添付して、有坂は一条の腕に抱かれて春近にメールを送った。
END
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リンクしている同人誌は「おまえと僕が、恋におちたら~メゾン・パラダイス202号室~」
WORKS(DOUJIN)からどうぞ
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