シルバーリング

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「本当にすみません。急に誘ったりして」
 俺が場所を指定した居酒屋は、よく潤とも行ったところだ。合掌造りを模した広いフロアは、週末の客とイキのいい店員が行き交って、騒々しく賑わっている。
 向かい合った奥の席で、嶋田室長に熱燗をすすめながら、俺は再度頭を下げた。それはもう言いっこなし、と笑って、室長は俺の注いだ酒を飲み干した。
「僕は酒好きのヒマな男だからね、そんなこと気にしなくていいんだよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて気にしないことにします」
 俺はにっこり笑った。
「今日はガンガン行きましょう。ここは食べるものもいけますよ」
 その言葉の通り、俺と室長は、多いに飲んで食べた。
 なるほど、こりゃ確かにガンガンだね、と笑いながら、自分で酒好きと称しただけあって、室長は見事な飲みっぷりだった。遅れをとるまいと俺もかなり飲んだけれど、こんなに美味い酒は久しぶりだ。
 室長は口数の多い方ではないが、ゆったりと構えて相手の話を聞き、その少ない言葉の中に機知を閃かせるところは、潤と似ているなと俺は思った。リラックスしている自分を感じ、潤と別れてから、初めて心から笑ったことに気が付く。
 ふと俺は、何気なく室長の左の薬指に目を留めた。
 照明が反射して、それは小さく、だが自己主張をするようにキラリと光ったのだ。
「嶋田室長、結婚されてたんですか?」
 深く考えずに出た言葉だった。
 だが、それは随分不躾だった。彼くらいの年なら結婚していて何もおかしくはないのに「昔、男で失敗した」というあの噂が、俺にそんな言葉を言わせた。
 室長は、困ったような顔で笑った。
「いや、そうじゃないんだ……結婚してるわけじゃないんだけど。これは、そう……お守りみたいなものかな」
「お守り?」
「だから、普段は外ではつけないんだけどね。外すのを忘れていたよ」
 そう言って、室長は右手で指輪のはめられた左手をそっと隠した。
 お守りと言いながら、いけないことを見つかったような、どこか後ろめたさを感じさせる仕草だった。指輪を外そうとする彼に、俺は自分が彼の地雷を踏んでしまったこと、彼を傷つけてしまったことを察した。 申し訳なくて、居ても立ってもいられないような気持ちになる。
「そんな、別に今は外さなくてもいいじゃないですか。大事なものなんでしょう?」
 嶋田室長は曖昧に微笑む。
 その表情が、銀の指輪が、今度は自分の中の傷に触れた。くすぶっていたものが出口を求め、俺は、もう黙っていられなくなった。
「俺の話……していいですか?」
 情けない俺の物言いに、室長は穏やかに「どうぞ」と答えてくれた。気持ちを言葉にして聞いてもらうことに、俺はきっと飢えていたんだと思う。
「俺、つい最近、二年近く付き合ってたやつにふられたんです。一方的に別れる、終わりだって言われて、納得いかなくてそいつに会いに行きました。途中で、勢いで安物のシルバーの指輪を買って……その場ではめさせて、もう絶対にそいつのこと離さないんだって息巻いて。でもね、部屋の前まで行ったら、足がすくんで動けなかったんです」
 そこまで喋って、ひとつ息をついた。
「――怖くて」
 室長が、俺のぐい呑みに、にごり酒を注ぐ。指輪は外されていなかった。
「そうか」
 短く言っただけで、カラになった俺の器に、室長はまた酒を注いだ。
 受け皿があると、今まで押し留めていたものが溢れ出すのを止められない。カッコ悪い、と思っても、受け止められる安堵感には勝てなかった。思いが言葉を伴って、堰を切ったように溢れ出す。
「携帯の番号やアドレスも変えられて、そんなに嫌われてるんだって思ったら、もうたまらないんです。俺は本当にあいつのことが好きで……最初に好きになったのは俺の方だったから、受け入れられた時はもう、嬉しくて幸せで、でも、結局あいつは俺に合わせてくれてただけだったんです。俺はそれが不甲斐なくて、あいつの何を見てきたんだろうって思って……同期で、男同士で、狭い世界で関係を続けることが息苦しかったって、言われて――」
「男同士」
 室長は、とても自然にその言葉をなぞった。だから俺も、自然に言葉を繋いでいた。
「そうです。俺は、同期の男と付き合ってました……名前は伏せますけど」
「君は、僕の噂を聞いたことがある?」
 少しの間のあと、室長は言った。
「はい」
 俺が頷くと、彼は自分の左手の指輪にそっと触れた。今度は愛しげな――泣きたくなるような仕草だった。
「じゃあ、少し昔話をしようか」
 その前に、と室長は新しい酒を注文した。
 そうやって場を仕切りなおしてから、彼は、とつとつと昔語りを始めた。

「僕が君くらいの頃、今から十年ほど前になるけど、僕は同期の男と恋人同士だった。初めに好きだと言ってくれたのは彼の方だったけど、彼はどこにいても人が寄ってくるような人気者でね、仕事もすごくできた。でも僕は目立たない男で、仕事も人付き合いも十人並みだったよ。だから、彼みたいな男がどうして僕を好きだと言うのか、最初はわからなかった」
 思い出を語る室長の表情は明るく、彼がその男のことを、とても好きだったということが伝わってくる。
「でも、だんだんと彼の気持ちが真剣なんだってわかってきて、気がついたら僕はもう、彼に夢中だった。同期だとか、男同士だとか、そういうの全部すっ飛ばして、まさに溺れたよ」
「溺れた……」
 その生々しい表現が、二人の濃密な関係を連想させる。自分たちも、いや自分も同じだったから。まさに、俺は潤に溺れていた――俺は、感じたままを口にした。
「そういう言葉が室長の口から出るなんて、正直、意外です」
「そりゃ、僕も彼も男だし、若かったからね……つまり、そういう付き合いだったってことだよ。君たちはそうじゃなかったの?」
「……いや俺は、もう夢中でした。だから、そう言う意味でも、あいつに無理させたのかと思って」
 恥ずかしさでしどろもどろになりながら答える。他人にこんな話どころか、潤と付き合っていたことを話すのはもちろん初めてだ。だが、室長は平然と、表情も変えなかった。
「君は、抱く方?」
「ええ? あっ、いやその……抱く方、です」
「よほど信頼して愛してなきゃ、自分と同じ男に抱かれたりできないよ。ノンケなら尚更だ……一概には言えないだろうけど、少なくとも僕はそうだった」
 そういう風に考えたことはなかった――。
 いつでも自分が触れたくて、抱き合うときだけに見せるあの表情が見たくて、そんな顔をさせるのは自分だけなのだと思うと、たまらなくて我を忘れた。
 でも、そんなふうに愛されていたかもしれなかったなんて……何もかも気付くのが遅い俺は、手の甲で溢れてきた涙を拭った。
「俺、悔しいっすよ。もっと早く室長に話聞いてもらえばよかった……はは、すみません。涙腺弱いんですよ、俺」
 泣き笑いする俺に、室長は目を細めて微笑みかける。
「君を見てると、彼を思い出すよ」
「えっ?」
 慌てた俺に、室長は可笑しそうに笑った。
「いや、色っぽい意味じゃないから気にしないで。彼も君みたいに表情豊かで、よく笑って、よく泣いたなあって……」
「室長もあいつに雰囲気が似てます。聞き上手なところとか」
「それは光栄だね。そうだな、どこまで話したっけ……ああ、僕たちがお互いに夢中になって、でも、そんな時間は長くは続かなかった。当時の常務のお嬢さんが、彼に一目惚れしたんだ。もともと仕事のできるヤツだったから上層部の目にも止まって、結婚話が持ち上がった」
「結婚……」
「彼はそんなコネがなくても上にのし上がって行く力のある人間だったけれど、そういう運を掴むのも能力の一つだ。だけど彼は、僕のために結婚はしないと言った」


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