シルバーリング
失恋しようが落ち込もうが、太陽はおかまいなしに登り、朝が来る。人ひとりの都合なんて、宇宙の摂理の中では無意味に等しい。
そんなふうに大げさに考えると幾分、気持ちが晴れる。
結局気休めだ。
でも気休めだって人生には必要だろ?
気がつけば潤が言っていた言葉を思い出している。
この一週間、俺はボロボロの心にムチを打って、仕事をこなしていた。
潤のことを考えていたいくせに、そのことにずっと囚われ続けていることは、とても心を消耗した。自分を責め、答えの出ない問いを、相手に求めてしまうからだ。
だから俺は仕事に逃げた。
仕事に没頭すれば気が紛れる。紺野課長の嫌味でさえ自分を奮起させてくれるものだと思うとありがたかった……それでも社内で潤の姿を見かければ、俺の心は騒ぎ出す。駆け寄って抱きしめて、さらってしまいたくなる。
そんな自分を必死で抑えた。
「同じ会社で、しかも同期で、狭い世界でこういう関係を続けることが息苦しかった」
あの言葉は俺の心に突き刺さったまま、じくじくとした痛みを主張し続けていた。
そして、その言葉を裏付けるように、潤は見事に「単なる同期」の顔をする。抱きしめたい衝動を抑えている俺の横を、何気ない様子で、他人の顔で通り過ぎて行く。
何とかもう一度話がしたい、顔が見たい。
思いつめた俺は、一度、潤のアパートの前まで行ってみた。だが、また拒絶されたらと思うと怖くなって、結局逃げるように帰ってきてしまったのだ。
昼休み、一人になりたくて、俺は屋上へと逃げ込んだ。午前中、気を張って仕事をしていたので、さすがに息をつきたかった。
消耗した心に、屋上の静けさと風の気持ちよさが心地いい。
煙草を出そうとスーツのポケットに突っ込んだ手に、かさかさと紙の感触が触れた。
――何だ?
取り出したものを見て、俺は乾いた笑いを噛み殺した。
その小さな紙袋の中には、安っぽいシルバーの指輪が二つ入っていた。あの日、潤の所へ行く途中で、道端の露店で見かけて衝動的に買ってしまったのだ。
自分への励ましのつもりだったのか、黒いビロードの上で光るそれが、黄昏どきに美しく見えたからなのか、何でこんなものを買ってしまったのか、もはや自分がわからない。
だがあの時は必死だった。
指輪が切れかけた自分たちの絆を繋いでくれるんじゃないかと、そんな願いをかけていた。潤にはめさせて、もう離さないと誓うんだと、本気でそんなことを考えていた。
今年の潤の誕生日には、指輪を贈るつもりだった。結婚できない同性の自分たちだけど、ずっと一緒にという思いを込めて、内側にメッセージかなんか彫って。何て言って渡そうかなんて考えて。
バカじゃないのか、俺。
俺は指輪の入った紙袋を握りつぶした。がちゃりと金属が触れ合う耳障りな音がする。
お笑いだ。
こんなもので、潤を繋ぎとめられると思っていたなんて――。
俺が潤に別れを告げられて、初めての週末が巡ってきた。
休日出勤して、別に月曜でも間に合うような仕事を片付けた。結局、することがなくなって帰ってきたけれど、恐ろしく時間がたつのが遅い。
自分の部屋のベッドに転がっていても、考えるのは潤のことばかりだ。大体、この部屋には潤を思い出させるものが多すぎる。
仕方なく、同期を誘って飲みに行こうと何人かに電話をしたけれど、みんなデートか別口の飲み会の最中だった。
「今日は加納と一緒じゃないのか?」
さらには、そんなことを言われる始末。
俺たちの関係は、会社ではもちろん秘密だった。俺は別に誰に知られてもかまわないと思っていたけど、潤は「進んで噂話のネタになることないよ」と言っていた。
それもそうだ。みんな好奇心をむき出しにして、あることないこと言うだろう。特に、紺野課長に格好のネタを与えてやるつもりは、さらさらなかった。
立て続けに何人かに振られ、俺はスマートフォンの電話帳を、半ば惰性でスクロールした。
ふっと『加納潤』のところで手を止め、何気なくその下の『嶋田室長』の文字が目に入る。登録だけして、一度も使用したことのない番号とアドレスだった。
――嶋田室長。
先日、俺は長らく取引のなかった店舗に出向くことになった。大手ではないが安定した堅実な店舗で、是非取引を復活したいというのが上層部の意図するところであったものの、以前のトラブルが有耶無耶になったままで尾を引いているという。そのため、俺は過去の取引の実績と、トラブルの発端から収束までを、洗い出さねばならなかった。
その時世話になったのが、資料室の嶋田室長だった。
「何かあれば対応するから」
そんな言葉に甘えて、連絡先を交換したのだ。
そうだ、室長なら。
いつもと違う相手と飲むのも気晴らしになっていいかもしれない。それに、一度室長とは、ゆっくり話してみたいと思っていた。
「よかったら飲みに行きませんか?」
中途半端な時間にもかかわらず、俺の突然の誘いに、嶋田室長は快く応じてくれた。
「ちょうど、僕も飲みたいと思っていたところだから」
部署も違い、仕事で数回接しただけの若い社員の不躾な誘いと取られても仕方ないと思っていたけれど、返ってきたのは穏やかな返答だった。
俺が過去の取引先の膨大なデータに困り果てていたとき、嶋田室長は、一緒になって、そのデータを洗い出してくれた。
本来、資料室の室長の仕事は資料の管理であって、データの分析は担当者の仕事だ。つまりそれは、『資料室の室長』に、誰もそれ以上のことは期待していないということだった。
室長とは名ばかりで部下はなし。資料室は別名『お荷物室』と言われる、社内でもいわくつきの部署だった。社内で問題を起こしたり、仕事の出来ない者を厄介払いするところだと聞いている。だが、俺には、実際に接した嶋田室長が、そんな問題のある人物だとは思えなかった。
データの管理、分類、分析、すべてに彼は精通し、その仕事ぶりは堅実なものだった。
加えて、人と接する物腰も柔らかく、相手を安心させるような、ほっこりとした雰囲気を持ち合わせている。
同期くらいかもしれないけど、紺野課長とはエライ違いだ――嫌味な上司に辟易していた俺は、すぐに室長に好印象をもった。
でも、仕事もできて性格もいいなら『お荷物室』にいる理由は何だろう?
ほどなくして、俺はその理由に関する噂を耳にした。最近、嶋田室長に仕事を手伝ってもらっているというだけで、心無い噂話は、聞いてもいないのに勝手に向こうからやってきたのだ。
「あの人と密室にいてさ、何かこう……ヤバい雰囲気になったりしない?」
社員食堂で向かい合った同期のうわさ話を、俺は焼き魚定食をかっこみながら、聞き返した。
「ヤバい雰囲気って何だよ」
「嶋田室長ってさ、昔、男で失敗したんだってよ。男だぜ? ゲイなのかな、あの人」
男で失敗した、と聞いて、俺はあやうくご飯をかまずに飲み込みかけた。話を振った同期の隣には潤がいたが、彼は平然と食事を続けている。俺はコップの水をぐっと飲み干した。
「失敗?」
「同期の男にストーカーみたいなことやったらしいよ。それで『荷物室』行きなんだって。今は名目は室長だけどさ……男が男にストーカーってキモくねえ?」
噂ってのは、どうしてこう悪意に満ちているんだろう……自分たちの状況に照らし合わせ、俺はそう思わずにいられなかった。
相手から漏れ出す偏見という空気に苛立つ。そして噂話だけで室長を揶揄するヤツに心底腹が立つ。だが、目の前の潤の存在が、俺を平常心に押し留めた。
「何があったか知らないけど、室長はいい人だよ。すごく頼りになるし。噂で人をそんな風に言うなよな」
結局、その場は至極模範的な回答で切り抜けた。
室長をそんなふうに言われ、自分たちの関係を揶揄されたようにも感じて悔しかった。けれど、そのあとで潤と話をしているうちに、俺は落ち着いたのだった。
「真治の言うとおりだよ。言いたいやつには言わせとけばいい。それより、よくあの場を我慢したな」
甘えて顔をすり寄せた俺の髪を撫でながら、潤はそう言ってくれた。そして、「俺も嶋田室長と一度、話してみたいな」と笑った。
それで結局、今、俺だけがこうして、室長と酒を飲んでいるのだが――。
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