シルバーリング
研修の最終日、打ち上げのあと部屋に戻ると、潤はもう黙々と、身の回り品の整理を始めていた。その様子を見ていたら寂しくなって、俺は小さく鼻を啜った。
「長いようで短かかったな」
めずらしく、潤から話しかけてきた。それだけで俺は涙がこみ上げてくる。
「そうだな」
それだけ言うのがやっとだった。
「俺、本当に高科と同室になれてよかった。いろいろありがとうな。これからも頑張って」
差し出された手を、俺はそっと握る。
口数の少ない人の発した言葉は、真摯な熱と意味をはらんでいる。それも潤と一緒に居て、知ったことだった。
一瞬、握手したその手を引いて胸の中に抱き込んでしまいたい衝動に駆られた。その衝動は何とか耐えたが、でも俺は、握った手を離すことはできなかった。
どうしたと言いたげに、潤は不思議そうに、少し不安そうに……首をかしげてこちらをうかがう。
「あの……」
手を握ったまま、俺は言葉を探していた。
「俺、これからもずっと加納に会いたい」
日本語が何かヘンだ。
言い直さなきゃと気ばかりが焦る。だが、今の気持ちを言い表すことは難しい。だから結局、シンプルな言葉になった。
「……好きなんだと思う」
罵倒されることはないにしても、引かれたり冗談にされるだろうと思っていた。だが、彼の反応はそのどちらでもなかった。
「それは、どういう意味で?」
静かで真っすぐな問いだった。
「高科は、ゲイなの?」
「いや……男に対して、そういうふうに思ったことは今までなかった」
俺が答えると、潤は一瞬何か言葉を飲み込んで、そして思い切ったように口を開いた。
「……俺、今までに何度か、男に口説かれたことがあって……まさに“そういう”意味で。電車で身体を触られたり、急にのしかかられたり、そういうことも何度もあった」
潤にしては自嘲的なその口調――男に口説かれたり、襲われたりしたことがあると聞いて、やっとその意味を俺は理解した。
あの独特の艶っぽさ。
何かの拍子に、あのうなじや背中を見てしまったら?
いや、見なくてもわかる者にはわかるのかもしれない。潤に対してよからぬ妄想を抱くヤツは多くて、潤はそういうことに傷ついてきたのかもしれない。
「俺は違う。誓ってそんなのじゃない……うまく言えないけど、俺は加納の側に居るとすごく安心して、話を聞いてもらうと、明日も頑張ろうって思えるんだ。だからこれからもずっと側に居て欲しいし、側に居たい。加納のこともっと知りたいし、笑った顔とか見たいし、要領がよくないとこが心配だから、加納のこと大事にしたいし、甘やかしたい」
怒涛のように言葉を放った。
無表情だった潤の顔に少しずつ赤みがさす。
彼が照れているときは、こういうふうになることを、俺はもう、知っていた。だから俺も正直にならなきゃいけない。好きだという思いだけじゃなくて、自分の中にある劣情も、ちゃんと言葉にしなければいけない。
「そりゃ好きだから――正直言って加納のこと触りたいし、そういうこともしたいと思うよ。でもそれだけじゃないんだ。そういうことも含めて、加納のこと大事にしたいんだ」
一瞬、潤は身体を硬くしたけれど、そこから拒否や嫌悪は感じられない。
「大事にする。だからこれからも側に居て。俺のこと好きになって」
愛しさがこみ上げて、もう一度ぎゅっと手を握ると、潤は赤くなったまま小さく頷いて、ふっと息をついた。
「身体、目当てじゃないなら――」
それから俺たちの付き合いが始まった。
仕事帰りに待ち合わせて食事をしたり飲みに行ったり、休みの日には映画を見たりドライブしたりした。やがてお互いの部屋を行き来するようにもなったけれど、それはちょっと親密な友だち付き合いの範疇だった。
身体、目当てじゃないなら――。
潤の言葉は、俺の心に深く突き刺さっていた。釘を刺された、と思ったけれど遅かった。
どんどん潤を好きになっている自覚はあったし、今更、手を出して彼を失うことなどあり得ない。
だから俺は、潤に対する欲望を押さえ込んだ。潤の方も、相変わらず俺の前で着替えることもなく、酔いつぶれたりするなどの隙も見せなかった。
だが、手を伸ばせば触れられるところに身体はあり、何気ない仕草や言葉から、好きだからこそ察知してしまう抗いがたい色香が立ち上る。
例えば名前を呼んで振り向いたとき、小首を傾けて話を聞いてくれるとき――。
初めて旅行に行ったときも「何にもしないからさ」と、おどけて笑って強がった。辛かったけれど、そうすることが潤への思いの証だと思って、俺は耐えた。
そんな辛さを忘れたくて仕事に打ち込み、潤に認められたい気持ちも相まって、気がついたら、新人ながら脅威の営業成績を上げていた。潤が「すごいな」と笑ってくれることが、俺は何よりも嬉しかった。
そんな状態が一年と少し続いた。
そろそろ限界だった。ちょうどその頃、同期の女子社員に「総務の加納くんって彼女いるのかな?」と聞かれたのだ。
結局、好きなのは俺だけ――潤の心は何も見えない。
好かれてはいると思う。人付き合いが苦手な彼が、俺を側に置いてくれる訳は、とてもよくわかる。でも俺が結局「親友」で甘んじているうちに、加納が女の子にさらわれてしまうかもしれないと思うと……やりきれなかった。
親友じゃない。恋人になりたい――。
そうして俺は、二十四回目の誕生日を迎えた。
その日は、潤が店を予約しておいてくれた。いつも行くような気軽な居酒屋ではなくて、数ヶ月先まで予約でいっぱいの無国籍料理の店だった。
潤は何も言わないが、随分前から予約して準備してくれたことは明白だった。それが自分のためだと思うと、俺は嬉しくて泣きそうだった。
美味しい料理とワイン、目の前の大好きな男……恋人とは言えないけれど、細かいことは考えずに、幸せな誕生日を満喫しようと俺は思っていた。
「たまにはこういう店でワインもいいかなと思って」
「いつもビールばっかりだもんなあ。ウチで飲む時なんか発泡酒だし、誕生日最高! でもさ、ここ予約するの大変だったろ?」
「高科は本当に、美味そうに食べたり飲んだりするから、どこにしようかって考えるのも楽しかった」
はにかんだような潤のその表情に、俺の心臓はどくんと大きな音を立て、平常心がぐらぐらと揺れた。
「……反則だ」
「え?」
そんな顔するなよ、と心の中だけで呟いて「いや何でも」とごまかした。そんな自分を隠すように、俺は矢継ぎ早に言葉を連ねる。
「でさ、すごく慣れた感じでワインのオーダーするからびっくりしたよ。本当はワイン好きなの? いつも俺に付き合ってビールや焼酎飲んでたとか?」
「……勉強した」
潤はぽつんと言った。そのまま下を向いてしまったが、耳まで赤くなっているのがわかる。
「今日、高科に楽しんでもらいたかったから」
俺がテーブルに手をついて立ち上がったので、その拍子にテーブルがかしいで大きな音を立てた。その音に驚いて、潤が顔を上げる。
「俺のため? 俺のために?」
酔いも手伝って、潤を見つめる俺の目は、熱っぽかったに違いない。その熱を避けるように、潤はふいと横を向く。俺は向かいのベンチシートに移動して、潤の隣に座って顔を覗きこんだ。
「顔、見せて」
潤は頑なに下を向く。
「ねえ、加納――」
接近する俺から、ますます潤は顔を背けたが、俺はじりじりと追い詰めた。
「それより、何か欲しいものない? 誕生日と営業成績トップのお祝いに……考えたんだけど、何がいいかわからなくて」
追い詰められて壁の方を向いたまま、潤は言う。ここまで来て、必死で話題を逸らそうとする。その姿にいじらしくも腹が立った。
「キスしたい」
俺は顔を近づけた。
「何かくれるって言うんなら、キスして」
そこはタペストリーが下がっただけの半個室だった。呼ばなければ店員が入ってくることはないが、周囲に人の気配はある。キスを交わすには少々大胆な場所だった。
俺は潤の手を握り、にじり寄ってさらに壁に追い詰めた。真剣だった。今を逃せば、彼に触れることは叶わないかもしれない。
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