シルバーリング
俺と加納潤が出会ったのは、社の新人研修の場だった。研修所で、二人部屋の同室になったのだ。
俺は人見知りなんか無縁なタイプで、他人との同居生活という状況にも、ほとんど不安など感じていなかった。だが同室となった潤はそうではなかったらしく、緊張して言葉も少なく、見るからに硬くなっていた。話しかけてもあまり反応がなく「ああ」とか「うん」といった返事のみ。なかなか会話というものが成立しなかった。
もちろん、他人との距離の取り方は人それぞれだ。そういうことが苦手な者もいるのだということはわかっている。それでも、これまで人付き合いに苦労しなかった俺は、そんな潤との距離感を、物足りなく感じていた。
だが、相手が保とうとする距離を必要以上に縮めることはすべきではない。だけどこの二ヶ月、一緒に暮らすのだ。上手くやれるなら、その方がずっといい。
そして、ぎこちないながらも寝食を共にしていると、お互いに慣れてくるものだ。少しずつ、俺も潤のことがわかるようになり、潤もまた俺に心を開いてくれるようになった。
潤はもともと無口で、感情が顔に出ない質だった。でも、あまり動かない表情で武装してはいるが、顔立ちは綺麗で整っている。笑えばモテるんだろうに……でも、別に無愛想で機嫌が悪いのではなく寡黙なだけ。それがわかると、俺は潤といることが楽になった。
無愛想どころか、潤は気遣いのできる人物だった。
人の前に立つことはないが、目立たない所でさりげなく他者をフォローする。それが自分の手柄にならなくても、そんなことは一向に気にならないようだった。
ただ、仕事が早いタイプとは言えず、目立たない所でしっかりとやっているのに、それをアピールしようとする気はない。そんな部分で、コイツはこれから苦労をするんじゃないだろうかと、俺はそんな潤が気がかりだった。
一方で、潤はとても聞き上手だった。
相手に批評や激励を入れずに、ただゆったりと話を聞く。さりげない共感を滲み出させる空気を持っている。それはきっと、潤が持って生まれた、他者を幸せにする力だと思う。
自分は快活で相手を楽しませる会話はできるけれど、人を癒すなんてことは、きっと誰にもできることじゃない――俺は考えた。
当たって砕けろ型の自分は、人とかかわることに苦は感じないけれど、砕けた時には自己嫌悪に陥るし、泣きたくもなる。そしてここは、地獄と言われる厳しい新人研修の場だ。
居心地のよい巣から旅立ったばかりのひよっこたちは打ちのめされ、心身を磨耗させられている。それが社会へ出るために必要なことだとわかっていても……だから、加納のような人間と同室になれた俺は、とてもラッキーなんだ。
当たって砕けて疲れた俺は、いつも潤に癒された。話を聞いてもらって、「大丈夫だよ」「すごいな」と言われると、それだけで、また明日頑張ろうという気持ちになる。そして、そこでふと考える。
俺はそんなふうに加納に甘えて、聞いてもらってばかりだけど、加納は自分のストレスをどうしているんだろう?
「大丈夫なんだ。俺はテンションが低いから。きっと高科みたいな性格は、感情の起伏が大きくて、疲れやすいんだよ」
「なんかそれって、ガキみたいだよなあ」
落ち込むと、潤が優しく笑う。最近、彼は俺にそんな顔を見せてくれるようになった。
「俺は高科のことが羨ましいよ」
「え、何で?」
「俺は、楽しいこともつまらないことも、それほど感じないっていうか……たぶん、物事を感じる沸点が高いんだと思う。だからきっと、俺 物事を感じる沸点なんて、難しい例えで自分を表現する。俺だったら、そんなふうに自分のことを言い表せない。
ん? 俺は思考の中で立ち止まった。
加納が俺に、自分のことを話してくれている?
そう思うと急に嬉しくなった。そして自分をつまらないなどという彼を、守ってやりたいという気持ちが沸き起こった。
「そんなこと言うなよ。加納はいつも俺の話聞いてくれるだろ。皆が嫌がることも率先してやるし、俺にはあんなふうに出来ないよ。だからそんな風に言うな。俺は加納のこと、すごく好きだよ」
好き、とてもさらりとナチュラルに出た言葉だった。何かヘンなこと言ったか、と思ったのは、目の前の潤が赤くなっていたからだ。
「あ、俺、なんか紛らわしい言い方しちゃった? あのさ、人として好きだって意味だからさ」
赤くなった潤に驚いて、俺は咄嗟にそんなことを言っていた。
紅潮した顔を隠すように、潤は腕を顔の前に持ち上げる。あ、顔が見えない――そのことを、俺は何故だか寂しいと思った。
「高科は自分のことが好きで、だから人にもそういう事がすうっと言えるんだな」
物憂げな横顔が呟いた。
そんな寂しそうな顔するなよ、そう思ったら、今度は胸がきゅっと痛くなった。
「本当だよ。俺、加納と同室になれてよかったって心から思ってる」
胸の痛みに戸惑いながらも、そんなふうに言った俺だったが、その「好き」の意味が変わったことを自覚したのは、研修も終盤に近づいた頃だった。
その日は午後から美化作業があった。
湿度の高い梅雨入り前、除草や植木の剪定、溝掃除など、研修所の内部や周辺道路を、蒸し暑さと戦いながらの作業になった。終わった時には当然ながら汗だくで、研修所の風呂に入ろうと思ったが、まだ準備ができていない。風呂の時間は通常、午後六時からだ。作業があったからと言って予定を変えてはもらえない。仕方ないので部屋についているユニットバスを使うことにした。
俺はこのユニットバスというものが嫌で、いつも研修所の風呂の方を使っている。大半の同期がそうだった。
潤はまだ戻っていないようだった。汗だくでどこ行ったんだと思いながら、俺は洗面所のドアを勢いよく開けた。
――洗面台の前に、裸の潤が立っていた。
狭い空間に甘く湿った香りが立ち込めて、それがボディソープとシャンプーの香りだと気付いたとき、俺の目の前で白いタオルがふわっと舞った。
潤はバスタオルを体に巻きつけ、黙って俺に背を向けた。
隠しきれない背中に水滴が丸く光り、うなじに濡れた髪が張り付いている。身を隠すように、少し丸めた肩から背中のラインがなまめかしく、潤から立ち上る湯上りの芳香にクラクラした。
振り向き様にちらっと見えた顔は困惑に歪んで紅潮していて、俺は目の前の潤から目が離せなかった。けれど、それはほんの一瞬の出来事で、「そこ、閉めてくれないか」潤の怒ったような声で、俺は我に返った。
決まり悪くごめんと言って、ドアを閉める。
風呂上りの男を見ただけなのに、妙に心がざわついて落ち着かなかった。
この感覚は知っている……小学生の頃に初めてヌードグラビアを見た時と同じだ。ドキドキして、何かいけないことをしているかのような高揚感。その感覚を打ち消すように、俺はざわつく心とは裏腹な、現実的な言葉を潤に向けた。
「風呂に行ったら、まだ用意できてなくてさ。それで部屋のシャワー使おうと思って」
気まずさを払拭するつもりだったのに、何だこりゃ言い訳かと、センスのない自分の言葉にうんざりする。そして部屋のシャワー、と口にして、ふと気が付いた。
そう言えば、加納はいつも部屋でシャワーを使っている? 一緒に研修所の風呂に入ったことがない。「後で」とか「シャワーでいい」とか、いつもそんなことを言って……。
でも、それを気に留めたこともなかった。着替えでさえ見たことがなかったかもしれない……朝の身支度も寝る前も、いつもどうしていたんだろう。二ヶ月も寝起きを共にしていたのに、全く気付かなかった。
きっとそうだ。
加納は隠していたんだと、そのとき俺は思い至った。ルームメイトに裸を見られないようにと……そして、いつも衣服に包まれていたあの素肌を見てしまった今となっては、その理由は容易に想像できる。
あの、身体――。
明らかに女の子とは違うのに、あの背中からうなじのラインにかけての、説明しがたい色気は何なんだ。同性だからなのか、一種禁忌な香りがして、自分の中の知らない部分を揺り動かされるような怖さがあった。
男に見とれて欲情するという、自分の中の知らない部分――。
突きつけられたその事実に、俺は戸惑った。そして加納はきっと、そんな自分をよく知っている。自分の身体に、男を惑わすような何かがあることを知っている。だから皆と一緒に風呂に入らなかった。着替えている姿も隠した……。
クソッタレ!
さっきから質感を増している自分の下半身に、俺は心の中で悪態をついた。
中の彼からは何の反応もない。怒っているのかもしれない……だが、俺は自分の意思を無視して熱く勃ち上がってくるモノを持て余し、加納が今、ドアを開けませんようにと願うしかなかった。それなのに、洗面所のドアは前触れもなくカチャリと開き、Tシャツとハーフパンツを身につけた潤が姿を現した。
「高科?」
床にうずくまっている俺に、潤は怪訝な顔をする。不審だ。いかにも不審だった。でも、立ち上がれば勃起していることがバレてしまう――。
「みんな風呂に行ってるって思ってたんだ。だからカギもかけ忘れて」
自分に言っているのか、俺に言っているのか、対象が曖昧なその言葉は、行き場がなくて宙に浮く。
返答するのも不自然に思えて、俺は身体を反転させて勢いよく立ち上がった。そっちの方がずっと不自然だったけれど、その場からとにかく逃れないと……。
「俺、もう一回風呂行ってくる」と
俺は調子はずれな高い声でそう告げて、部屋を飛び出し、駆け込んだトイレで、俺は夢中で硬くなった自分のモノを扱いた。
頭の中は、さっき見た潤の身体の残像でいっぱいだ。熱い滾りを早く解放したくて、でも彼を想うことをやめたくない。アンバランスな焦燥に捕らえられて、頭も身体もぶっとびそうだった。
イキそうになって、根元をきつく握る。寸前で行き場を失った滾りが一瞬ナリを潜めた。
――何をやってるんだ俺は。
戒めても負けてしまう。男に欲情しているという状況に、やすやすと負けてしまう。
「か、のう……」
名前を呟くとせつないものがこみ上げてきて、ふっと気が緩んだ。
ぽたぽたと雫が落ち、突き上げられる衝動に夢中で手を動かす。イク、と思った次の瞬間には、手のひらに白濁したものがまとわりついていた。
やってしまった。
男相手に、あろうことか、親友になれると思った男に欲情した……潤を汚してしまったような気がして、俺はがっくりと肩を落とした。
だが、それから何事もなく淡々と日は過ぎて、そのことが二人の間で話題に上ることはなかった。
あれ以来、俺の中では確実に何かが変わったのに、潤はいつもと変わらなかった。敢えてその話題を避けているのかもしれないが、その少ない表情は、あのことについて、何も俺に語りかけてはくれなかった。こだわって気にしているのは自分だけなのだと、俺はそれが味気なかった。
そして研修は終わりに近付き、今後の配属先の辞令が出た。
俺は営業、潤は総務。
二人とも本社勤務だったが、フロアも仕事内容もまるで重なるところがない。研修が終われば確実に潤との距離は遠のく……その懸念と寂しさは、次第に俺の中で大きくなって行った。
無口で表情も少ないけれど、気遣いができて縁の下でいつも他者をフォローしている謙虚な男。聞き上手で他者を癒す空気を持った優しい男……彼が側に居てくれたら、俺はきっと強くなれると思う。
そして、垣間見てしまった色気。あの無表情の下に、どんな彼自身を隠しているんだろう。あのなまめかしい裸の背中は、どんな風にしなるんだろう……。
気がつけば、俺はそんなことばかり考えていた。
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