シルバーリング
次の日、潤は再び俺の部屋を訪れた。
一晩挟んだことで頭が冷えたんじゃないか、あれは冗談だったと言ってくれるんじゃないか――。
そんな、ワラにもすがるような期待をして、俺は眠れない夜を過ごしていた。だが、硬く凍りついたままの潤の顔を見て、ささやかな期待は粉々に打ち砕かれてしまった。そもそも、潤が冗談を言うなんてことは、今までだってなかったのに。
「荷物取りに来た」
壁にもたれてやっと立っている俺の前を、潤はそう言って通り過ぎて行く。そして、そのまま俺に背を向けた。
「本当に別れるのか?」
その背中に何度か訴えるが、返事はない。
黙ったまま、潤は衣類や身の回りの物をバッグに詰め込み始めた。そうしながら、まるで何も聞こえていないかのように、そこに誰も居ないかのように、背後で立ち尽くす俺の存在を無視し続けている。
「――なあ?」
だが俺は、辛抱強く彼の反応を待った。隣にしゃがみ込み、無視を決め込んだその顔を覗き込む。
「なあってば」
けれど覗き込んだその瞳は、俺の方を見てはくれなかった。息がかかるほど、こんなに近くに居るのに――そう思ったら、悔しくなった。
「キスしてやる」
あくまでも自分を無視し続ける男に腹が立って、俺は自分を見ようとしない顔を、顎を掴んで引き寄せた。だが次の瞬間、その手を渾身の力で振り払われる。しかも視線は相変わらずバッグと床の上の衣類に注がれたまま――潤は、徹底的に俺を見ようとしなかった。
「――潤」
苦しくなって、名前を呼ぶ。
こっちを見てくれよ、無視するなよ……そんな思いがあふれて零れた俺の声は、涙声だった。
昔観た恋愛映画で、主人公は自分を捨てようとする恋人に、無様に追い縋っていた。
どうして俺はそのシーンをみっともないなんて思ったんだろう。失いたくなければ、あんな風に泣いて縋って当然じゃないか……。
「もう、名前で呼ばないでくれ」
潤はやっと口を開いた。だが、待ち望んだその声は、それでもやはり冷たかった。
「俺たちはただの同期に戻るんだ。だから名前で呼ぶな……俺も呼ばないから」
「どうしてだよ?」
俺は食い下がった。
「ちゃんと理由を言ってくれよ。俺たち、うまくいってただろう? どうして急に……」
「だから、そう思ってたのはおまえだけなんだよ。俺はずっと……同じ会社で、しかも同期で、狭い世界でこういう関係を続けることが息苦しかった」
じゃあ、こんなことになる前に、そう言ってくれればよかったんだ。 昨日から何度も心の中で繰り返した言葉が、頭の中でリフレインする。
言うべき言葉は、もう残されていなかった。何を言っても撥ねつけられる――俺は目の前にある、潤の首筋に指を触れた。
続く背中は、陶器のようになめらかで艶っぽい。触れるとき、俺はいつも我を忘れてしまう。その背中に、夢中になって赤いアトをつけたのは、つい数日前のことなのに。
その時から、潤はいつもと様子が違っていたんだろうか。潤に溺れ、浮かれていて、俺が何にも気付いていなかっただけなんだろうか――。
潤が指を振り払おうとするよりも早く、俺は彼を後ろから抱きすくめた。
「潤……」
背はそれほど変わらないけれど、肉付きの薄い潤の身体は、俺の腕の中にすとんと納まってしまう。そんな潤が小さく頼りなく思えて、離したくないという焦燥が身体の中を駆け上がる。
振りほどかれてもいい。抱きしめたい。離したくない――俺は、潤を抱く腕に力を込めた。
だが、潤はそうしなかった。ただ、身体を石のように硬くしたまま、じっとしている。まるで血の通わない作り物を抱いているようだった。
「高科……」
潤は俺を苗字で呼んだ。さっき宣言したように、「真治」と、名前で呼んでくれなかった。
「……おまえはすぐ、そうやって何でもごまかそうとする」
「しょうがないじゃん……だって俺、いつでも潤に触りたくて仕方ないんだもん。言葉とか態度とか、そういうの全部、おまえの前だと、とっ散らかるんだもん」
「そんな言葉使うなよ。営業成績トップが聞いて呆れる」
潤はそう言って、力の緩んだ俺の腕から、するりと抜け出した。空虚になった腕をだらりと下げたまま、成すすべもなく、俺は潤の言葉の棘を受け止める。
営業成績だとか、何で今、そういうことを言うんだよ――。
でも、思ったたけで言い返せなかった。
「自分のアパートに戻るから」
潤はバッグを手に立ち上がった。
「俺を捨てるんだ……?」
今まさに出て行こうとする男に、俺はうなだれたまま訴える。返事はなかったけれど、潤がうなずくのを見るのが怖くて、顔を上げられなかった。
ほどなく、ドアが閉まる音がした。
潤が部屋を出て行ったその音を、俺は目をぎゅっと閉じて聞いていた。
いざ潤が出て行こうとしたら、絶対に泣いて縋るか、思い余って押し倒すかどちらかだと思っていたのに、そのどちらもできなかった。身体が動かなくて、気持ちが凍りついて、ただ、出て行く姿を見ていることすらできなかった……。
確かに、自分の方がより好きなんだという自覚はあった。
でも、潤は思いに応えてくれたし、セックスだって強要したことはない。潤の方から触れてくることもあった――。
何よりもお互いの生活を気遣い、仕事を気遣い、恋愛感情の延長にある、そういった安心感は二人で積み上げてきたものだという手ごたえがあった。営業成績がトップになったのも、潤に認められたくて頑張っているうちに結果的にそうなったのだ。潤が居てくれたから、どんなに激務でも、意に染まない仕事でも、癒してくれる存在があったから頑張れたのに。
テーブルの上には、部屋のカギがぽつんと置かれていた。キーケースから外されたそれは、ずいぶん頼りなくて小さく見えた。
俺はあふれてきた涙を拭った。
ダメだ。俺、やっぱり、めちゃめちゃ潤のことが好きなんだ――。
再確認している自分が滑稽だった。
「うわ、酷い顔っすね。高科先輩」
「うるせーよ、中田……」
「目がぱんぱんに腫れてますよ」
後輩に返事をせずに、俺はクールジェルのパックを目に当てる。昨日、結構泣いたせいで、まぶたが重苦しく腫れて、我ながら酷い顔だということはわかっている。
中田は、俺に「付き合っている相手」から意味深なメールが来たことを知っている。空気を読んだのか、彼はそれ以上、俺の目が腫れているわけを聞いてこようとはしなかった。
その代わりに壁の時計をちらちらと見て、落ち着かなげに立ち上がる。
「先輩、メンテ中申し訳ないですけど、そろそろ出ましょうよ。紺野課長がこっち睨んでますよ」
「メンテ中とか言うなよ」
中田の発したその名前を聞き、俺はさらに不機嫌になった。
課長の紺野の視線なら、さっきから感じていた。鬱陶しいから無視していただけだ。
気分は最悪だが、ここで紺野課長にいわれのないガンをつけられるよりも、外回りの方がずっといい。俺はアタッシュケースを手に立ち上がった。中田に付いて来いと促し、第一営業課のフロアを、いざ出ようとしたときだった。
「なんだその顔は」
さっさと出ようと思ったのに、フロアの出口で、まるで待ち伏せされていたかのように、俺は紺野課長につかまってしまった。
紺野課長は俺の顔をじっと見て、そしておもむろに皮肉を発する――いつもそうだ。
さあ来るぞ、と思っていたら、案の定、冷ややかな視線とともに毒舌が繰り出された。
「失恋でもしたのか? 男前が台無しだぞ」
言葉というものは、発せられる相手によって、どうしてこう、快にも不快にも、冗談にも本気にもなるんだろう――。
今のはパワハラだろうが、と思いながらも、俺は努めて丁寧に返答した。挑発に乗らないことが、せめてもの意趣返しだ。だが、今は言われたことが当たっているだけに、ものすごく嫌な気分だった。
「昨夜から花粉症が酷くてですね、鼻水も涙も止まらなかったんですよ。見苦しくて申し訳ありません」
「自己管理がなってないからだ」
俺の言い分に冷たくそう言い捨てて――花粉症なんて嘘だったけれど――紺野課長は自分のデスクに戻って行った。
残された俺は、小さく舌打ちをする。そして、すぐ横ではらはらしながら成り行きを見守っていた中田に声をかけ、第一営業課のフロアを出た。
中田たち後輩からすると、課長の俺への態度は不可解に違いないだろう。
そもそも第一営業課の紺野春樹課長といえば、厳しくもあるが、一方で部下を褒めて育てる、闊達で話のわかる人気の上司だ。彼がこんなふうに冷たく当たるのは、俺に対してだけなのだ。
もちろん、最初からこうだったわけじゃない。
異例の昇進を遂げ、三十歳で課長となった彼は、俺たち若い社員の憧れだった。
彼は、若手の柔軟な姿勢や発想を評価し、前線で働く俺たちのバックアップを惜しまなかった。俺だって、もともとは紺野課長に時には厳しく、時には温かく支えられ、導かれて成長したのだ。
だが、いつ頃からだっただろう。
少しずつ、課長の俺に対する態度が硬化し始め、ある日急に、爆発するように紺野課長は嫌味たらしく、冷たくなった。けれど、それが自分の仕事ぶりに何か非があって厳しく言及されるのであるならば、俺は何も厭わなかった。
だが、課長の俺への態度には、いじめとまでは言わないが、棘がある。そしてそれはすごく子どもっぽいものに思えてならない。
まるで、八つ当たりされているような――?
俺と課長のそんな状況を、見所があるからこその厳しさだと慰め半分、高科のやつ、何かやらかしたんじゃないの? という興味半分で、周囲が見ていることも俺は知っている。
今みたいなやり取りなんて日常茶飯事で、だからいつも側にいる中田なんか、自分はどう振舞えばいいのか、すごくストレスが溜まっているに違いない。
だが、そうやって嫌味剥き出しで接する一方で、紺野課長は、俺の仕事については、皆と平等に評価していた。
虫の好かないやつだからといって、仕事の上で冷遇したり、不当な評価をすることはない。だから何とか彼の下で我慢しているが、わけもなく人間性を否定されるというのは、やはり嫌な気分だった。
でも、だからこそ「見返してやる」と思って頑張れたのも、また事実だったのだ。
そしてもうひとつ。
――愛してやまない大切な恋人に認められたい。
入社四年目にして営業成績トップを走り続ける俺の原動力は、実はここにある。
「俺、ちょっと総務に用あるからさ、先に降りて下で待ってて」
中田にそう言って、俺はエレベーターホールの向こう側にある総務課のフロアに足を向けた。潤のいる部署だ。
嫌な気分だからこそ、少しでも彼の顔が見たい……昨日、一方的に別れを告げられたから尚更だった。
総務フロアへ通ずる角の、大きな観葉植物の陰でスマートフォンをチェックするふりをして、俺は潤のいる方をうかがった。
多くの者が立ち働くその中で、俺はすぐに潤を見つけた。
恋って不思議だ。どこにいても瞬時にその人のことを見つけられる。俺は例えば、満員電車の中でさえ、すぐに潤を見つける自信があった。
――潤。
潤は電話を取ったり、パソコンに向かったり、書類を回したりと、目まぐるしく働いていた。
傷心の自分と違い、きびきびと立ち動く所作や真剣な表情に、俺は今更ながらに、潤と自分との温度差を感じてしまう。思わずため息をついたとき、若い女子社員が糸くずか何かを潤の肩から取っているところが、俺の視界に入ってきた。
ありがとう、というように、潤は彼女に笑いかけている。
――気軽に触るんじゃねえよ。俺の潤に!
名前も知らない女子社員に嫉妬している自分が嫌で、俺はいたたまれなくなって、逃げるようにその場を立ち去った。
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