シルバーリング
土曜の夜、午後八時五分。
五分遅れて、紺野課長は俺の指定した店にやってきた。
地酒を多く取り揃えた、落ち着いた居酒屋の個室。土曜の夜で客や店員がせわしなく行き交う通路を背に、開けた障子を閉めもせずに、課長は声もなく立ち尽くしている。
中に居たのは、部下である俺、高科真冶と、総務の加納潤、そして自身の同期でもある、資料室の室長――。
「――嶋田」
ようやく口を開いた紺野課長は、呆けたようにその名を呟いた。決して相手を呼んでいるのではなく、ただ名前を発音したような感じだった。いつも隙のない彼がこんなに無防備な顔をするのを、俺は初めて見た。
「久しぶりだな……こうして会うのは」
嶋田室長が声をかけたが、彼はそれには答えずに、俺の方に血管が浮き出そうに引きつった顔を向けた。
「……高科、これはいったい、どういう茶番だ?」
「茶番じゃありません。飲み会です」
飄々と答えた俺に、紺野課長の顔が怒りに歪む。仁王立ちになっている彼に、嶋田室長は静かに言った。
「座れよ、紺野」
「人を馬鹿にするのもいい加減に……!」
「春樹」
俺に詰め寄ろうとした彼を、嶋田室長は声で制した。
名前を呼ばれ、紺野課長は毒気を抜かれたように、急に静かになった。仕方なく障子を閉めて、空いていた潤の隣に座り、深くため息をつく。それからすぐに障子が開いて、あらかじめ注文していた酒や料理が運ばれてきた。彼が出入り口を塞ぐように立っていたので、中へ入れなかったのだろう。
器を掲げて乾杯をしたが、当然のように、紺野課長はそれに倣わなかった。黙って酒を飲みながら、座卓の向こうから俺を睨みつけている。そんな彼に、俺は努めて静かに言った。
「課長、嶋田室長も一緒だと言わなくてすみませんでした。言ったら来ていただけないと思ったので」
「これはどういうことなのか説明してもらおうか。高科、何を企んでいる……最近、資料室で仕事をしていたが、まさかおまえ……」
俺を見る紺野課長の目が、いっそう険しくなる。
「加納と別れて間もないのに、嶋田に手を出したんじゃないだろうな?」
「何を言ってるんです? それは嫉妬ですか?」
俺は淡々と言い返した。潤の目が不安そうに泳ぎ、嶋田室長は黙って俺たちのやりとりを聞いている。
「俺には、ずっと潤だけです。あなたが自分の後悔を俺たちに重ね合わせようと……俺は、あなたのようにはならない。潤が俺を思って身を引いてくれても、俺はあなたみたいに諦めたりしない。乗り越えてみせる。あなたのやっていることは、ただの八つ当たりです」
「真冶!」
咎めるように、潤が遮った。
「言いすぎだ……紺野課長は、俺たちのことを心配してくれたんだって言っただろう?」
「潤に何て言ったんです? 男と付き合ってても、何もいいことなんかないって? 傷つく前に別れろって?」
潤に目だけで笑いかけ、俺は紺野課長への言葉を続けた。だが彼は、俺を見ようとはしなかった。
「……ああそうだよ」
そう言って、紺野課長は俺を素通りして嶋田室長を見る。その視線を逸らさずに、室長も彼の方を真っ直ぐに見ていた。
「俺は、結局嶋田を失脚させて、ホモのストーカーだなんて烙印押させて、未来とか、信用とか、こいつからいろんなものを奪ったんだよ。だから、おまえたちが付き合ってることに気付いて、居ても立ってもいられなかった。高科を見ていると、あの頃の自分を見ているみたいで苛ついたよ。加納がおまえに人生を狂わされるのを見過ごせなかった……俺は、加納を第二の嶋田にしたくなかったんだよ!」
自虐的に言い放って、紺野課長は笑い出した。
「だから俺は加納に、傷つく前に別れろって言ったよ。だけど結局、加納も自分の保身は二の次で、高科の将来を思って身を引いたんだろ? お笑いじゃないか。付き合っても別れても、しょせん結婚もできない男同士で振り回し合ってるんだ」
「結婚できなくても、ずっと一緒にいることはできます」
俺は静かに言って、潤を見た。
「そのために、人は続ける努力をするんじゃないんですか? そういうことを忘れないために指輪とか買って……それは男も女も一緒でしょう。ただ、超えて行かなくちゃいけないものは、異性より多いだろうけど」
嶋田室長がはめていた銀の指輪を思い出す。彼が「お守りのようなもの」と言った意味がわかると俺は思った。
指輪はお互いを縛るものじゃない。誓ったことを忘れないための――それでもやはり、忘れてしまうこと、叶わないことはあるのだろう。でも、指輪を初めてはめたときの、その気持ちは色褪せない。嶋田室長がそのことを教えてくれた。
俺の隣にいた室長が、つと立ち上がった。
そして課長の隣にいた潤が、黙ってその席を空ける。小さく会釈をして座った室長は、俯いた紺野課長の肩を抱いた。
「僕は、おまえに人生を狂わされたなんて思っていない。そんなこと言わないでくれ」
何も表情を映さない彼の目に、嶋田室長は語りかける。
「高科君の言う通りだとしたら、その努力をしなかったのは僕なんだ。守ったつもりでおまえのことを傷つけて、追い詰めたんだよ……」
室長は、紺野課長の肩をもう一度、今度は力を込めて抱きしめた。
「ごめん……ごめんな春樹……傷つけてごめん……逃げてごめんな……」
冷たく凍っていた、紺野課長の中の何かが溶け出した。きっと身体の中で彼の心を支えていただろうそれが溶けて崩れ、彼は形を保てなくなったマリオネットのように、だらりと室長の胸にもたれかかった。
「博隆……」
消え入りそうな課長の声は、それでもしっかりと、俺と潤の胸に響く。
紺野課長の額に、嶋田室長は唇を触れた。
いつも自分に冷たかった上司が、やっと辿り着いた男の胸で、そっと目を閉じて額へのキスを受け止めるのを、俺は不思議な気持ちで見守った。十年分のまわり道の果てに訪れた奇跡のようなその一瞬は、俺の心をそっと、だが強く押した。
「真冶」
潤が俺の肘を引いた。うなずいて、二人で立ち上がる。
「加納君」
嶋田室長が潤を呼んだ。振り向くと、彼はまだ、課長を抱きとめたままだった。
「時間だけは何をどうしても取り戻せない。恋愛は独りでするものじゃないんだって、僕はこの十年、そのことばかり考えていたよ」
「そうですね……でも、やり直すことはできるでしょう?」
潤は、寄り添う二人に微笑みかけた。
嶋田室長は「そうだね」と言って、腕の中の男を、もう一度強く抱きしめた。
店を出ると、夜の空気がひんやりと心地よかった。俺は息を吐いて、シャツのボタンをくつろげる。
結局、俺たちは上司二人の熱に当てられて外へ出た。そしてその熱が、今まさに俺を前へとつき動かしている。
寄り添った二人の姿に感動が冷めやらず、俺は感慨深げに、横にいる潤に話しかけた。
「あの二人、やり直せるよな」
「そうだな。離れていた時間にあったことをたくさんたくさん話し合って……これから、お互いに知らなかった部分を埋めて行くんだろうな」
言った潤は、少し足早になった。追いかけるように歩幅を詰めながら、俺はそっと前を歩く潤に手を伸ばす。今なら、その手を掴まえて、背中から抱きしめられる――。
「今から、うちに来てくれる?」
急に潤が振り向いて立ち止まった。勢いで当たりそうになった行き場のない手を、俺はさっと引っ込める。
まだ潤と一緒に居たかったけれど、部屋で二人きりになったら、平常心を保つ自信がない。離したくなくて、めちゃめちゃに抱いてしまいそうだった。でも俺たち二人のことは、まだ何も解決してはいないのだ。
「いいの? えーと、高科は俺の嫌がることはしない、だっけ?」
それとなくあの日のことに触れるが、潤は照れたように笑っただけだった。
数日前より穏やかな気持ちで、俺は潤の部屋に足を踏み入れた。
熱いコーヒーと一緒に、俺の前に小さな水色の箱が置かれる。見覚えのあるそれは、有名宝飾店のものだった。
外箱から取り出したケースを、潤はそっと手のひらの上で開いた。中には銀色に輝くシンプルな指輪が二つ……ほぼ同じサイズの指輪が二つ並んでいた。
「真冶の誕生日に渡そうと思って買ったんだ。でも、そのあとすぐ、紺野課長に話を聞いて……頭を殴られたみたいだった。先のこととか、真治の将来とか何も考えてなくて、指輪を買って浮かれてた自分が恥ずかしくなったんだ。これを渡せば、俺は真冶の人生をある意味縛ってしまうんだって思ったら、怖くなった」
「俺、俺も!」
俺は慌てて、ジーンズのポケットを探った。見れば落ち込むのに、どうにも持っていないと落ち着かなくて、ずっと持ち歩いていた包み。破れかけた小さな紙袋の中に、いかにも安物な、銀の指輪が二つ入っている。
「おまえと別れて、なんか衝動的に道端で買っちゃって……本当は、俺もそれなりの店でイニシャル入れてとか考えてたんだ。なのに、勢いでこんなの買っちゃって」
焦る俺の唇を、温かいものがそっと塞いだ。何度か啄ばみ、下の方から唇を合わせてくる。それは間違いなく、潤がいつもしてくれたキスだった。
「これがいい」
唇を離した潤はそう言って、紙袋の中の指輪を一つ取って、自ら左の薬指にはめた。
突然の出来事に呆けたまま、俺は自分の買った安っぽい指輪が、潤の左の薬指で光っているのを見ていた。
そして自分の左の薬指に、潤の買った指輪がはめられる。そのひやりとした感触が、俺を現実へと引き戻した。
俺は潤の左手をとり、もう一つの指輪を、自分の買った指輪の上に重ねた。潤も同じように、俺の指に、紙袋の中の指輪を重ねてはめた。
「二つでひとつだ」
うなずいた潤を、俺は胸に抱き寄せる。どちらからともなく唇を合わせ、誓いのキスを交わした。
「病める時も、健やかなる時も」
「――病める時も、健やかなる時も」
互いの舌の上で誓いの言葉を転がして、何度も舌と唇を重ね合う。
何度も、何度も。
「死が二人を分かつまで」
「――分かつまで」
病める時も、健やかなる時も、お互いが最善でいられますように。
死が二人を分かつまで、一緒にいられますように。
それは相手を縛る呪文じゃない。約束なんだ――俺は潤に囁いた。
そうだな、と言って、潤は俺の胸に身体をあずける。潤のシャツの中に手を入れて、自分を虜にしてやまないその背中を、俺は宝物に触れるように、そっと撫でた。
すべては、そこから始まったのだ。
研修所で出会い、その人柄に触れて、その隠された色香に魅せられ、俺は潤に夢中になった。思いは触れ合い、寄り添い、そして離れ、今またここで、ひとつになる。
俺と潤との物語は、まだ続いている。終わりじゃないんだ――。
二人がお互いを思う気持ちがすれ違わないように、迷っても、再びお互いへと戻って来れるように、この銀の指輪に約束しよう。
俺は、潤の頬を両手で挟み込んだ。そんな俺の左手に、潤がそっと自分の左手を重ねる。
四つの銀の指輪が、二人を祝福するかのように、かちゃりと優しい音を奏でた。
「もう、二度と離さない」
俺の呼びかけに、初めて抱き合ったあの日のように潤は目元を赤く染め、肩を小さく震わせながらうなずいた。
END
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