シルバーリング

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 住んでいる所は知らないし、仕方がないので、明日が休みでよかったと思いつつ、俺は室長を自分のアパートに連れ帰った。何とか部屋に上げてスーツの上着を脱がせ、ソファに寝かせてひと息つく。
 本当にどうしたんだろう今日は……と思いながら、この部屋に潤以外の男を入れるのは初めてだな、とふと考えた。
 潤が出て行ってから一ヶ月――彼の名残は、今も部屋のそこかしこにある。
 一緒に料理をした台所、くつろいだソファ。その右端は潤の定番の場所だった。隅っこに寄りたがる潤をこっちへ来いよといつも抱き寄せて、キスばっかりしていた。そして、この1DKのいたる所で愛し合った。
 部屋に上がるのを待ちきれず、玄関で抱きしめたこともある。狭い風呂で、のぼせそうになりながら抱き合ったこともある。そこの窓のふちに立たせて、俺は潤の背中が好きだったから、後ろから貫いて――。
 潤の部屋でなく、ここで半同棲のように過ごすようになったのは、この部屋の方が防音の質が高くて、あの時の声を気にせずにいられたからだ。
 覚えたてのサルみたいだったよな……俺は呆れ返る。
 好きで、好きで、欲しくて、欲しくて……濃密な恋の思い出はそこかしこに散らばっている。主のない声や仕草の亡霊は、きっとここに住み続けて、俺を苛み続けるに違いない。 
 会いたい、潤に会いたい――。
 泣けそうになった時、室長が小さく身じろいで、何か寝言を言った。 よく聞き取れなかったけれどそれはたぶん名前で、きっと彼の忘れられない人だ。今も、その人の夢を見るくらいに――。 
 その名前の響きを聞いたことがあるような気がした。でも、自分と室長の二人分のせつなさに押しつぶされそうになって、俺は考えることをやめ、室長の肩にタオルケットをかけ直した。
 そうしていつの間にか俺も眠ってしまって、目が覚めたら朝の八時を回っていた。
 室長はまだ眠っている。朝飯でも買いに行くかと思ったら、チャイムが鳴った。
 土曜の朝早くから誰だよ、と思いながらインターホンに出ると、聞きなれた声が「加納です」と告げたので、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。
 玄関に飛んで行ってドアを開ける。そこに居たのは、間違いなく潤だった。俺を正面から見ないようにして、小さな声が告げる。
「ごめん。朝早くから」
「いや、全然! 来てくれて嬉しいよ」
 上がってと言いながら、玄関にある男物の靴に目を止める。俺が履かないブラウン系の靴……潤がじっと見ているので、いたたまれなくて、俺は慌てた。
「あのっ、これはその……」
「忘れたもの取りに来たんだ。レンタルショップの会員証……カード入れてた箱の中にあると思うから見てもらえる?」
 だが潤は、何ら感情の篭らない声で、そう言っただけだった。怒っているのか、無関心なのか、まったく読めないのが怖い。
 ソファで室長が寝ていることを思い、別にやましいことは何もないが、あまりにも悪すぎるタイミングを俺は呪う。他の男が寝ている部屋に潤を上げるのは、いくらなんでもできなかった。
 カードを渡すと、潤は「じゃあ」と小さく言って踵を返した。俺は夢中で、出て行こうとする腕を掴んだ。
「あのさ」
 腕を掴んだまま、上ずった声で俺はベラベラと喋った。誤解されたくなくて一生懸命だったのだ。
「ほら、前に言ってた資料室の嶋田室長と最近、飲むようになってさ。昨夜も一緒に飲んでたんだけど、室長が潰れちゃって仕方ないからウチに連れて来たんだ。それだけでさ、何にもやましいことはないっていうか」
「別にそんなこと思ってない」
 俺の訴えを、潤はぴしゃりと遮った。
 空気が凍る……何か言わなきゃと思い、俺は言葉を連ねた。
「あの、まだなら朝飯食いに行かない? 室長も一緒だけど」
 だがその提案は、まったくその場の収束にはならなかった。それよりむしろ、気まずさをより充満させたに過ぎなかった。
「帰る」
「待てよ!」
 ドアが閉まる寸前、俺はもう一度、潤の手を掴んだ。
「頼む……もう一度、おまえと話がしたいんだ」
「俺はもう、何も話すことはないよ」
 予想通りの答え。俺は怯まなかった。
「何もやり直してくれとか、そういうのじゃないんだ……そりゃ、俺はできるならそうしたいけど、無理は言わない。それに、俺がおまえを傷つけたのなら謝りたい……俺は、これっきりなんて絶対に嫌だ。もう一度、友だちからでもいいんだ。連絡先も変えて、こんなに何もかも、なかったことにしないでくれ……」
「わかった」
 少し間を置いての返答だった。
「改めて、場所と時間は連絡するから」
 潤はそれだけ言うと、来た時と同じようにあっさりと帰って行った。
 ビジネスライクな約束だったけれど、俺は満足だった。とにかくこれで、潤への道が何とか切れずに繋がったのだ。
 ほっとして部屋に戻ると、室長がソファの上で正座をしていた。
「高科くん……」
「おはようございます。起こしちゃいましたね。騒がしくてすみません」
「そんな、謝るのは僕の方だ。酔い潰れて迷惑かけて……」
「いいんですよ、そんなの。いつも話聞いてもらってるし……朝メシ買ってこようと思うんですけど、パンでいいですか?」
「いや、モーニングはお詫びに僕が……いや、それよりあの、さっきの彼が君の……?」
 いつも落ち着いている室長が慌てている様子が、微笑ましかった。それで俺も、少し軽口になる。
「そうです。総務の加納潤。可愛いでしょう?」
 室長は頭を抱え込んだ。
「何て僕は間の悪い……」
「大丈夫ですから、そんなに気にしないでください。今度、会って話す約束もできましたから」
 俺は明るい声で、大丈夫ですから、ともう一度繰り返した。


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