シルバーリング
それは、どこの会社にもあるような、ありふれた展開だった。だが他と異なるのは、愛し合っているのが、男同士だったということだ。
これが男女であるなら、たとえ困難にぶつかっても、結婚という形を取って、自分たちの今ある状況を周囲に示すことができる。
でも――。
「彼は、別に周囲に知られても構わないと言った。結婚話を断わって、男と付き合っていると知られて、それで左遷されたとしても、自分はそんなものに負けやしない、働くところだってその気になればいくらでもある。そもそも、そんなことで人を追い詰める方が悪いんだ。だからおまえと離れないって、あいつは、そこまで言ったんだ」
「すごく……愛されてたんじゃないですか」
いい話を聞いているはずなのに、俺の心は少しずつ重く沈んだ。
話の内容が自分たちと被るところが多い。
俺だって同じ立場になれば、きっとそう言うだろう。でも、それが相手を苦しめることになるのか? 苦しんだからこそ、室長は今も独りで居るんじゃないのか?
指輪だけを愛しんで、大事にして――。
「愛されてたよ」
室長は噛み締めるように言った。
「それに、僕だって彼のことをとても愛してた。でもね、だからこそ怖くなったんだ。彼の人生を自分が歪めてしまうことになるんじゃないかって……彼には洋々たる未来の可能性があって、それを自分が潰すことになるのかもしれない。それに、彼の母親は重い病気で療養していて、彼は毎月かなりの額を仕送りしていたんだ。仕事を辞めるようなことになったら、彼の家族にまで迷惑をかける……そういうことがね、いくら好きだからって許されるのかって」
「……それで、それでどうなったんです?」
結末は聞かなくてもわかっていた。室長は今も独りでいるのだ――だけど、室長はきっと、話したいんだ。きっと、長い間誰にも言わなかった自分の気持ちを、今解放したいのだと俺は思った。
そうやって、今まで閉じ込めてきた思いを吐き出して、それで室長が、自分を肯定したいのか否定したいのかはわからない。でも、立ち止まったままの所から、少なくとも一歩を踏み出せる。室長はきっと、そうしたいのだと。
「どれだけ話をしてもラチがあかないから、僕はひと芝居打つことにした……嶋田博隆は、同期の誰それにつきまとっているストーカーだって怪文書をばらまいて、裏では徹底的に彼を無視した。彼は必死に噂を打ち消そうとしたけれど、自分が悪者になるには彼の評判は良すぎて、僕はそれを利用した。彼は嶋田に言い寄られ、結婚話を妨害されて困っているというスキャンダルの出来上がりさ。さすがの彼も最後には僕にキレて……」
室長は静かに話を結んだ。
「それで終わり」
「そんなの……おかしいじゃないですか!」
今度は違う意味で、俺は黙っていられなくなった。突きつけられたひとつの恋の終わりはあまりにもリアルで、救いがなくて、俺は泣きそうだった。
「あなた一人が悪者になって……俺には自己満足にしか思えません!」
「そうだね。その通りだよ。今から思えば、もっと他にいい方法があったかもしれない。でも、当時の僕はそういう形でしか彼を守れなかったんだよ」
「違う……そんなのは守ることじゃない」
「でも、それは君の見解だ。そういうやり方しかできない人間もいるんだよ。自己満足だと言われてもね……僕が彼を愛してたことは真実だから」
俺の目の前の、酒好きで穏やかな男は、かつての激しい愛を熱く語り、相手への狂おしいまでの想いを吐露してみせた。
ふられて一週間の自分と違い、十年以上も押し留めてきたその思いの深さは計り知れない。だが、やはり自分は、自分たちはそんなふうにならないと、俺は心の中で地団駄を踏む。
「何か君の助言にでもなればと思って話したけれど……失敗したかな。ダメだね、やっぱり僕は話が下手だ」
「そんなことないです……そんなこと言わないでください」
室長の優しい言葉に胸の中がもやもやとして、俺はそれだけ言うのがやっとだった。情けなく下を向いてしまった俺の肩を、室長は優しく叩く。
「嫌いばかりで人は別れるんじゃない……相手のことを好きすぎて、暴走してしまうこともあるんだよ」
肩に置かれた手が温かい。俺はまた、目の奥がツンと痛くなった。
それから俺は、嶋田室長と食事に行ったり、飲みに行ったりするようになった。自分の弱いところをさらけ出してしまうと、俺にとって、これほど心を許せる相手はいなかった。
この人は、俺と同じ痛みを知っている……だが潤のことだけでなく、仕事や取りとめのない話をしたり、酒を飲んだり……やはり室長は聞き上手で、俺は彼に会うと、いつでも心が軽くなった。
一方、潤はといえば、社内ですれ違うと、依然として普通に「同期のあいさつ」をしてくる。踏み込まず、離れすぎず――潤は見事に、そのラインを引く。だが俺は、十羽一からげに扱われるくらいなら、いっそ徹底的に無視してくれる方がましだと思う。
それなのに気が付けば潤の姿を探し、目で追っている。どうにかして、もう一度話がしたかった。
そして、室長の過去の話を聞き、俺は様々なことを考えた。
潤がいつも、どんな気持ちで俺の側に居たのか。抱かれていたのかということ。
今まで見えているつもりで見えていなかったことがたくさんある。言葉も表情も少ない潤だからこそ、俺は全身を目にして、耳にして、潤の気持ちをわかろうとしなければいけなかったのだ。それなのに、俺は潤に受け入れられたという現実だけに有頂天になっていた。
とにかく、潤の気持ちをもう一度聞いて、理解して、やり直したい。 友だちからでもいい。室長と潤の理由が同じでなくても、潤の中にも自己完結してしまった部分があるのかもしれない。
今度は、潤の心を絶対に見逃さない――。
一時のどん底から這い上がった俺は、少しずつ自分を取り戻して行った。無茶に仕事に逃げ込むことをせず、以前の余裕が取り戻せてきた。
そして気が付けば――あれほど鬱陶しかった紺野課長が、最近はあまり気にならないくなっていた。
というよりも、以前の俺への不機嫌なオーラがそれほど感じられないのだ。俺に対する態度は変わらず冷ややかではあるけれど、それは、厳しい上司の域を超えるものではなかった。かと言って、今更、課長によい印象はもてないけれども――。
一方で俺は、紺野課長と嶋田室長が同期であることを知った。だが、室長が付き合っていたという同期の男のことについては、俺は詮索しなかった。
俺にとって大切なのは、嶋田室長が一人の男を愛して身を引いたという事実だけで、その相手が誰であるかということは、別に知りたいとは思わなかったのだ。
社内でも、その件については緘口令が敷かれているようだった。今きっと、当事の常務の娘婿に納まっているエリートならば、男に言い寄られストーカーされたという過去は、暗黙の了解のもとに封印されているだろう。その証拠に、嶋田室長についての噂も具体性に欠けるものだったのだ。
「俺、正直言って紺野課長って苦手で」
ハイボールを片手に、今日も俺は室長に愚痴をこぼした。いつもと同じ、週末の居酒屋……室長と週末を飲み歩くというのは、すっかり恒例になっていた。
「何でかわからないけど、よく思われてないんですよね……俺、基本的に人付き合いは苦じゃないんですけど、あんなふうに訳もなく拒絶されると、さすがにへこむし敬遠したくもなりますよ」
「昔から思い込むと融通の利かないところがあったよ」
室長は六杯めのロックのグラスを手の中で転がして笑った。でも、マッカランがいつの間にかスミノフに変わっているし、心なしかいつもよりピッチが早いような気がする。少し気になりながらも、俺は室長の同調に気をよくして、調子に乗った。
「そうなんです。けっこうゴリ押しだし、あれじゃいじめっ子とそう変わらないですよ」
いじめっ子と聞いて、室長は、ははは、と声を立てて笑った。いつもはそんなふうに笑わないのに、やはり今日の室長はいつもと違う。
何か、よほど楽しいことがあったのか、それともその逆なのか。
「確かに子どもっぽいところがあるんだよ。精一杯に虚勢張って強がってるんだから、許してやってよ?」
言いながら室長はどんどん酒が進む。少しやばいなと俺は思い始めた。
案の定、宥めすかして店を出てタクシーに乗り込むと、すぐに彼は寝入ってしまった。
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