シルバーリング

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10


 潤から連絡が来たのは月曜日。社内メールだった。
 日時と場所だけの短いメールを、俺は大切に保存してから、携帯のスケジュールに書き込んだ。
 連絡は携帯のメールでは来なかった……新しいメールアドレスをたどれないように、念を入れて避けられていることを再認識したが、ちゃんと潤に会えるのだという嬉しさで帳消しになった。付き合い始めた頃のようなわくわく感……約束は木曜だった。
 気持ちに張りがあると、全身に自信がみなぎるのがわかる。その週の水曜日、難色を示していた新規店舗との契約を勝ち取り、俺は後輩の中田と祝杯をあげた。
 本当は潤に一番に知らせたかったけれど、約束はもう、明日の夜だ。報告したら、潤は前のように、「すごいな」と喜んでくれるだろうか……そんな思いに、俺は久々に胸を膨らませた。
「しかし、ここ最近、先輩ってば上がったり下がったりで忙しかったですよね」
 中田が口の周りを生ビールの泡だらけにして、しみじみと言った。口は悪いが、先輩思いのいいヤツなのだ。
「そうか? そんなに酷かった俺?」
「酷かったですよ。なんだか世界の終りみたいな顔してましたもん」
 世界の終り……確かにそうだったかもしれない。潤のいない世界は、俺にとって色褪せたものだった。
「それが仕事になると頑張っちゃうとこがまた痛々しくて。なのに、いつの間にかしっかりと浮上してるんだもんなあ」
 まあまあと、焼き鳥の皿を中田にすすめる。遠慮せずに、彼は串に食らい付いた。
「その代わりと言っては何ですけど、紺野課長、最近元気ないと思いませんか?」
「はあ? 別にいつも通りだろ」
「それがね、ここだけの話なんですけど」
 社内に居るかのように、中田は声を潜めた。
 彼は情報通だ。社内の人間関係の様々なことをよく知っている。同期で付き合っている彼女からそうしたことをよく聞くようだ。大概は罪のない他愛のないことばかりだが、どうやら、今日のはそうではないらしい。
「紺野課長、離婚したらしいですよ。それで課長の奥さんって、元常務、今は役員のお嬢さんで、鳴り物入りで結婚したらしいから、いろいろ立場悪くなるんじゃないかって話です」
 えっ? 
 危うく枝豆を飲み込みそうになった。俺が驚いたのは、紺野課長の離婚云々ではなく、その後だった。
 元常務のお嬢さんだって? 
 嶋田室長は何て言ってた? 彼は当時の常務の娘との結婚話が持ち上がったと……そう言ってなかったか?  
 それじゃ、嶋田室長の恋人だったのは――。
 俺は、今聞いた話を自分なりに整理しようとした。だが、思考はぐるぐると回るばかりで、うまくまとまってくれない。それくらいに、俺は驚いていた。
「せんぱーい」
 急に黙りこくった俺の目の前で、中田が手をひらひらさせた。
「あっ、いや。でもさ、どんなしがらみだか知らないけど、そんなことで立場悪くするようなタマか? うちの課長は」
「そりゃそうですけど、上層部の心証はいろいろと悪くなるんじゃないですかね」
 浮かんだのは嶋田室長の顔だった。
 室長はこのことを知っているんだろうか? 彼と女性とのごく普通の幸せを願って、あの人は身を引いたのに――。  
 真に力のある人間ならば、後ろ盾などなくても揺らいだりしない。だが紺野課長の立ち位置は、嶋田室長の自己犠牲の上に成り立つものだ。 自己満足、と言った室長の顔が、俺の心をよぎって行った。 
 潤との約束は明日の夜だった。だが俺は複雑な思いを持て余し、中田と別れたあとに、潤の住むアパートへと足を向けた。
 とにかく、潤の顔が見たかった。
 室長と課長の事情に、俺はどうしても自分たちのことを重ね合わせてしまう。
 明日会うことになっているのに突然押しかけたりしたら、きっと潤は俺を拒むだろう。それは辛いけれど、それでも俺を受け入れない潤もやはり、潤には違いないのだ。  
 会いたい。顔が見たい。自分たちの結末は違うのだと……その確証が欲しい。
 恋人としては別れても、人として寄り添っていくことはできるはずだ。室長と課長のように、全てが裏目に出てしまうような末路など――。
 だが、たどり着いた部屋の灯りはついていなかった。もう終電もなくなる時間だというのに、どこへ行っているんだろう。落胆しても、俺はその場から動けなかった。
 潤のアパートの前は小さな公園になっていて、砂場の前のベンチから、ちょうど潤の部屋がよく見える。電球が切れかかってチカチカと鬱陶しい常夜灯の下で、俺は自販機で買ったコーヒーを開けた。脱力したように、ベンチに座り込む。
 しばらくそうしていたら、アパートの前にタクシーが停まった。
 後部座席から降りてきたのは他でもない潤だった。思わず立ち上がりかけた俺は、半開きのドアから半身を乗り出している男の顔を見て、その場に凍りついた。
 紺野課長だった。
 潤は彼に向かって、何度か頭を下げている。紺野課長は、そんな潤の肩に手を置いた。まるで慰めるような雰囲気で、その肩を優しく叩いている。
 潤はもう一度頭を下げ、走り去って行くタクシーを見送った。

 何で、どうして、潤が紺野課長と……。
 思いがぐるぐると俺の中を駆け巡った。二人は仕事上においても、何の接点もないはずだ。なのに――。
 潤と一緒だったのが、例えば他の上司ならば、これほど混乱しなかったと思う。衝撃を受けたのは、それが紺野課長だったからだ。
「潤!」
 踵を返し、アパートの外階段を上りかけた潤を、思い余って俺は呼び止めた。振り向いた潤は、驚き、見開いた目で俺を見つめている。
「高科?」
 こんな時にもやっぱり潤は俺を苗字で呼ぶ。そんなことにもいちいち傷つく自分を、俺は嫌というほどに感じていた。
「わかってる。約束は明日だろ。そんな顔するなよ……」
 言いながら、俺は潤の側へと歩み寄る。潤の戸惑った表情に、思わず彼を抱きしめそうになる。俺は拳をぎゅっと握って、その衝動に耐えた。
「ただ、おまえの顔が見たかったんだ。明日会えるとわかってても、どうしても……」
「……何かあった?」
 その天然な問いに、俺は腹が立った。
 俺をこんなに悩ませといて「何かあった?」はないだろう。しかも、他の男と、紺野課長と、こんな夜遅くに帰ってきたくせに――言えない言葉を、俺は飲み込んだ。
 何しに来たんだろう俺は。こんなみじめな気持ちをわざわざ味わいに来るなんて、ほんとにバカみたいだ。
「……帰るよ」
「待って!」
 思いがけず強い口調で引き止められ、今度は俺が驚いて振り向いた。 肩越しに見た潤の目は、心なしか、苦しそうに細められている。
「上がっていけば? 待たせたんだろ……コーヒーくらい入れるよ」
「いいのかよ。別れた男を部屋に入れて」
「高科は、俺の嫌がることはしないから」
 釘を刺された俺は、それでも言われるままに潤の部屋に入った。
 あれほど俺を拒絶していた潤が、今、拍子抜けなほどあっさりと、俺を部屋に入れた。 
 そのことに懸念と戸惑いを抱きつつも、引き止められたことは、言いようがないほど嬉しかった。


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