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総務課の加納潤と第一営業課の紺野課長とは、本来重なるところのない間柄だった。潤にとっての紺野課長とは、同期で恋人の高科真治が苦手とする上司……という認識だけの人物だったのだ。
真治を通して紺野課長に対する愚痴やその他諸々の話は聞いていたけれど、たとえそれが恋人の天敵である上司であっても、実際に自分が接したことのない者に、決め付けた感情は持たない。それは潤の信条だった。
だからと言っては何だが、潤はその紺野課長から「話がある」と言われたときには随分と驚いた。瞬時に「真治のことじゃないか」とは思ったが、それならそれで、単なる同期――と周囲は思っているはずの自分に紺野課長が真治の何らかの話をするなど、もっと解せないことだった。
まさか――潤は考えた。
紺野課長は何か自分たちのことを知っているのだろうか。それで、何がしかの忠告や意見があるのかもしれない……自分と真治が男同士で付き合っているということについての?
潤は洞察力に長けていた。でも、そんな自分のことはあまり好きではない。何だか、人の思いの裏側にあるものを探っているような気がするのだ。だから却って、裏表のない真治に惹かれたのかもしれなかった。
「念のために言っておくけれど、俺が呼び出したことは、誰にも……君の恋人にも内緒で」
紺野の遠まわしな言い方に、潤は、ああやっぱり、とため息をついた。心の中を妙な胸騒ぎの風が吹いていった。
「前置きはやめておく。単刀直入に言うけれど、高科真治と付き合うのはやめた方がいい」
心づもりというか、真治のことを言われるだろうという心の準備はできていた。だが、いきなりの否定に、さすがの潤も反論せずにいられなかった。
「どうして僕たちのことを課長がご存知なのかわかりませんけれど、いきなりそのようなことを言われる覚えはありません」
「……君は穏やかなのかと思っていたけれど、けっこう言うね」
上から目線の揶揄だった。「紺野課長は高科を目の仇にしている」というのは、真治本人から聞く以前に公然の噂だったが、潤は真治の愚痴を聞きながらも、それを鵜呑みにしてはいなかった。それが事実なら何か理由があるのだろうと思っていた。だが、さすがに今は腹に据えかねた。
「それほど、君はあいつのことが好きだってことか?」
紺野は淡々と、静かな怒りをたたえた潤を見る。
「……では課長はなぜ、高科にこだわるんですか? しかも……わざわざ僕なんかを呼びつけて」
目上の者への非礼は承知で潤は憤りを口にした。だが、紺野は表情も崩さなかった。
「あいつはやめておけ」
「だから何で……!」
「男と付き合ったって何もいいことなんかない」
「だから、そんなことをあなたに言われる覚えはありません」
「……あるさ。俺は十年前に同期の男に惚れて、付き合って……そいつを不幸にした張本人だからな」
「不幸?」
同期の男に惚れたとか、付き合ったとか、潤が反応したのはそこではなかった。不幸にした、というその響きを、潤は聞き流すことができなかった。
「高科はあの頃の俺と同じだ。ただ相手に夢中で、現実とか先のこととか、何も見えていない。そんな男と一緒にいて、幸せになれるはずがないだろう」
紺野は言い切って目の前のグラスを煽った。まるで苦い薬でも飲むように、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。口調はぞんざいだが、言いながら彼が苦しんでいることは容易に察することができた。
自分の過去を教訓に、紺野は何かを伝えようとしている。潤は自分の中の憤りを治め、続く紺野の言葉を待った。
「俺はな、君をあいつの二の舞にしたくないんだよ」
あいつ……紺野は遠い目をする。今もその彼を愛していると、紺野は無意識に自分の気持ちを露呈している。その無防備さに、唐突に別れろと言われた理不尽さを認めながらも、潤は紺野の心に今、初めて共感していた。男同士で愛し合ったって、幸せになれない――という、紺野が告げる可能性に、向き合わずにいられなかった。
「お言葉ですが」
だが潤は言い切った。だがこれだけはどんな可能性があろうとも、これだけは絶対に言えることだった。
「真治が僕を不幸にすることなどありえません」
けれど、もしかしたらその逆はあるのかもしれない。自分といることで真治が――それは気付かされてしまった、もう一つの結末だった。そんなことがあるかもしれないなんて、気付かないでいた間はよかった。だが、気付いてしまったら、もう無視はできない。気付かなかった自分には戻れなかった。
「ん……あ、真治……」
真治の腕の中で、潤はもう何度目かの極みを迎えようとしていた。抑えようとしても出てしまう喘ぎ声……でもいつからだっただろう。そんなことを気にする余裕すらなくなっていったのは。
最初の頃は、何もかもが恥ずかしくてたまらなかった。彼の前で裸になることも、触れられることも、イカされることも、そして「潤」と名前を呼ばれることでさえ。
真治はセックスのとき、こうして何度も名前を呼ぶ。それは彼の「好きだ」と同じ意味なのだということを、潤は身体で覚えていった。名前を呼ばれるごとに、真治を受け入れた部分がいやらしくひくついて、彼を離すまいと締め付ける。中が大きく脈打って、真治をもっと奥へと引き込もうとする。抗えない快感に身を委ねながら、自分はいつからこんなに淫乱になったのだろうと、そんなことを思う。
自分は話すことが得意ではない。真治みたいに、いろんな言葉や表情で「好き」が言えない。だから潤は身体で気持ちを表現するようになった。感じることを隠さないで、真治に全てをさらけ出す――全身で好きだと告げる。
「潤……潤」
真治がせつなげに潤を呼ぶ。その声も、汗も全て自分のものだった。自分のものにしていいのだと思っていた。
「あ、もっと……もっと呼んで――」
「潤……潤、潤、潤――」
絶頂の近い真治は、狂ったように腰を打ち付けてくる。その愛おしい激しさに身を任せ、潤は身体も心も、全ての感覚を研ぎ澄まさせて、真治の声を自分の奥深くに取り込んだ。
もっと呼んで。
もっと、もっと。
何度でも呼んで。
真治、たとえおまえと離れても、おまえを思って生きていけるように。
俺がおまえに愛されたことを、忘れないでいられるように。
END
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